FOOTBALL | [連載] 因髄分解

アオイヤマダ「批判するひとも、もどかしさやうまくいかない部分が生活の中であるのかもしれない。」 | 因髄分解

interview |

text by Gaku Tashiro

 因髄分解とは、各業界のプロフェッショナルな方々が考えるこだわりを【因数分解】し、そのこだわりを産む【骨の髄】にある要素を探し、「日本サッカーのこれからについて」を考える上でのヒントを探る旅である。

Design: Tomoya Onuki

  Fergusの記事、あれがすごい面白かったです。

 うそ、本当ですか(笑)

 いまはカナダなんですね。ロサンゼルスかと思っていました。

 そうなんです。4月に渡米したときは観光ビザで入ったので、3ヶ月しかいられなかったんです。いま考えたら英語も特に喋れないやつが3ヶ月で仕事を勝ち取りきって、生活しようとしてたなんてイカれているとしか考えられないんですけどね。あっという間に3か月経ってしまったんですけど、そのタイミングでいま正社員として働いてるパシフィックFCから人を探してるって連絡をもらって観光ビザが切れる最終日、渡米90日目にビクトリアに来て2週間後には契約していたっていう変な一年でした。

 誰かのお家に住ませてもらって、その人の紹介でって書いてありましたもんね。

 ご覧いただいて、ありがとうございます。川崎フロンターレの元スタッフの方がビクトリアに住んでいまして、その方の家に2ヶ月間居候させていただいてました。その間も毎日企画書を作ったり映像を編集したりして、12月に正社員になったんです。

 えぇ、すごい。すこし話は飛ぶんですけど、満島ひかりさんがよくご飯を食べに行く料理家さんに寺本りえ子さんという方がいて。寺本さんが「実はいま居候してる女の子がいてさ」って話を満島さんにしたところ興味をもったらしいんですね。満島さんもちょうどNetflixのドラマでダンサーの女の子を探していて「もしかしてこの子?」って寺本さんに見せたひとが私だったんです。もともと満島さんはどこかでパフォーマンスをみていてくれたらしく、まさかだったみたいです。私が寺本さんのお家に居候していなければあのドラマには出ていなかったんですよね。

 居候ってするもんなんですねぇ。

 そう、居候からいまの活動に結構繋がってたりもして。本当に人との繋がりが大事だなと思いました。

 間違いなくそうだと思います。人の繋がりでしかないですから。それ以外なにもないまま日本を飛び出しちゃったので。居候をさせてくださったご家族に一生感謝をしながら生きていきますもん。

「そういうものを解放させてあげることは私にもきっとできる」

 では、そろそろ始めさせていただきたいと思います。さっそく堅苦しくて恐縮なのですが“ダンスとサッカーは無駄なのか”についてお話いただきたいと思います。まずはガクくん、いかがでしょうか。

 「サッカーは無駄なのか」みたいなところで言うと、日本にいたときは閉鎖的な業界事情もあって無駄だなと思っていました。大人が球を蹴っていることに人々が熱狂しているわけじゃないですか。意味不明ですよね。なんでこんなことになってんだろうなっていうのは、働いてても不思議でした。ただ、その大人が球を蹴っている先に無駄ではないもの、例えばハンディを持っている方がサッカーを観にくることを楽しみにしている環境がありますとか、そういうことを企画している内にどうやら球を蹴っていること以外は全て無駄じゃなさそうだぞってことになんとなく気がついてきたんですよね。お金を生んでみたいなところもそうですし。僕はどちらかというと物事をとりまく経済活動、社会現象みたいなとこに興味があるタイプなのでそれを無駄なものが生んでいること自体に興味があります。

 サッカーが無駄で閉鎖的なニュアンスがあるっていうのがすごく不思議。全世界の共通言語だと思っていました。全世界の人が熱狂できるもの。私はあまりサッカーを見ないんですけどやっぱり共通するものというか、サッカーとか野球とかって社会にコミットしてると思っていたし、それを聞いて意外だなって。

 僕はダンスのほうが共通しているものだと思うんですよね。より誰でも、って感じがしませんか。それこそ少し下の世代とかは義務教育でも入りましたよね、体育でダンスの授業があったり。

 ダンスって大きく括るとわからないですけど、私がやっている活動とかダンスのことを一体なんのためにあるんだろうと考えてしまったことはあります。世の中もっと大変なことがあるわけじゃないですか。でも社会に貢献できてるのかって問いへの答えがわからなかった。なんの意味もないんじゃないかって落ち込んだ時期もあって。でもさっきの話を聞いてて思い出したことがあります。すこし前に自閉症の子や障がいをもつ方にワークショップをする機会があって、とある自閉症の男の子がはじめのころはあまり仲間に入れなかったんですけど、そのワークショップを通してすごく自己表現ができるようになったことがありました。それを見たご両親が「こんな表情をする息子の顔をはじめて見ました」ってとっても喜んでいて。その時に自分ができることってまだまだあるのかもしれないと思いました。あとはパフォーマンスを見にきてくださったお年寄りの方が自分の若いときと重ね合わせて、涙が出てきて、色々思い出したと言ってくれたときに物理的になにかを生み出すことはできないかもしれないけれど、人間が根本的に持ってるもの、抑圧されたもの、寂しさ、そういうものを解放させてあげることは私にもきっとできるのかなって思うようにしているかな。最近はそういう塞いでしまっているものを絆創膏って呼んでいるんだけど。

アオイヤマダさんご提供:アオイツキワークショップ

 思うようにしている繋がりでいうと、そもそも無駄でいいかなっていう気持ちもあるんですね。いまはいろんな正解がすぐ見えてしまうし、効率的な生き方を推奨されているかのように感じる世の中。こうすればうまくいきますよ、みたいなのをよく見ると思うんですけど、よくわからないけれど無駄なもので人が熱狂できる、スタジアムでは何万人が集まるのでこれを保っていることの方がよっぽど大事だなというか。無駄なものを排除する風潮がもっと加速すればするほど、スポーツとかエンタメの幅は狭まってくると思います。でもどうにか無駄ではないって理由をつけて、本質的に無駄なものを残していく。そっちの方に頭を使いたいなっていう気持ちがちょっとあるかもしれないです。

 うん、わかる。あるお医者さんとお話したときに言われたことが記憶に残っていて。僕たちは-1を0にすることはできるけど、ヤマダさんのように0のものを1にすることはできないって言われたんですよ。その病院に来てる人はみんな-1の状態だけど、我々はそれをプラスにすることはできないんだって言われた時にすごく背中を押された。こんなにも社会、人間のために働いている職業の人たちが私にそんなことを思ってるんだって気がついたときに自分がやってることにもう少し自信持ってやってもいいかもしれないと思いました。

 アオイさんは自分の表現が無駄であると思ったことはあるんですか?

 全然ありますよ。お医者さんの話もそうですけど、そう思ったときにいろんな人の話を聞いて「自分のできることはもっとあるな」とか「まだまだやらなきゃいけないこともあるな」と思えたから。でも結果的に表現していることが好きだし、これがなければやっていられないことそのものが大きいと思うんですけど、悩む時期もありましたね。

 この「無駄・無駄じゃない議論」っていろんなところに絡んでくると思うんですけど、商業的に価値があるから無駄じゃないみたいな話に終わらせたくはないんですよね。のちほど出てくるテーマにも絡んできますけど、サッカーは広告価値があるってよく言われるんです。何万人もの人が毎週スタジアムに集まって、広告的価値があるよねと。確かに企画を作るときは露出と収益のバランスが制作物にも影響します。でも広告のために我々は働いているのか、選手は命削っているのかって言われるとそれはあくまで副次的なものだと思うし、クラブとしてブレてはいけない軸だなと思うんです。お客さんが入らないから価値がないといわれるとなんて悲しい物差しなんだと感じちゃう。

田代さんは前職であるJリーグ・川崎フロンターレで主にプロモーションを担当した

「外にみえる部分は即興だけど、そこまでの過程に対しての脚本は作っておきたい」

 続いて、“ダンスにおける即興性”について伺います。場所やお客さんの人数でリアクションの違いだったりモチベーションの変化があるかなと推測しますが、それらはどのように表現に影響をしているのでしょうか。

 わたしは1人で踊ることが多いんですけど、1品ずつ出てくるレストランかバイキング形式のレストランかみたいなことだと思っています。お客さんはソロのパフォーマンスを観るときは目の前の演者に集中するじゃないですか。だからやってるこっちも集中できるしお互いが集中することによって完成する空間があります。一方、大人数で踊るときにお客さんは観たいものを観る、もちろん全体を観る人もいると思うけど。パフォーマンスする側も自分のことだけを考えてると全体のパフォーマンスが成立しないですよね。

 サッカーは集団で戦うものなので、試合に勝つことが大きなテーマとしてあります。ゴールを決めるために団結する。アオイさんの表現でいくと目指すところはどこになるんでしょうか?

 時間が決まってたらそれまでに終わらせるゴールもありますよね。一度即興でやったパフォーマンスがあったんですけど、15分の予定が40分になったことがありました。そのときのゴールは、会場一体でなにかひとつのものを観た感覚がなんとなく肌で感じられることだと思っていたので、そのときがきて終わったかな。

 時間的な制限を必ずしも受けるわけではないってことなんですね。

 時と場合によるかな。時間がしっかり決まっていたら、そのゴールに向けてある程度の脚本みたいなものがあるので。その脚本さえ作っておけば起承転結は作れるから、あとは現場で自分がにじみ出る動きとか感情をのせる。その外にみえる部分は即興だけど、そこまでの過程に対しての脚本は作っておきたいっていう。

 おもしろすぎる。ぼくは設計をする立場なので即興ってほぼないんですよね。程度によりますけど、即興があるとそもそも機材が動かないし現場では圧倒的に年下なので技術さんに普通にキレられる。だからなにかをお披露目する前に、お客さんがどう考えるか、感情の起伏みたいなところまでなんとなく考えちゃうんです。でも面白いなと思うのは、いくら念密に頭の中で企画を組んだとしても全然考えてなかったことが面白いとか、あれはちょっとわからなかったとか言われることです。そのときは逆に受け手の即興性を感じるんですよね。気がついていないところで、そんな風に捉えられるようなアウトプットだったのかってことに対する外れ感。つまりこんな反応が欲しいって思うなら、かなりマスな作りにしなければいけないってことだとも思うんですけど。

 確かに。ある程度準備してたほうが即興性の部分が際立って見えて面白いっていうこともあるよね。

 アオイさんが表現をしてきたなかで、想定外で面白いと思ったことってあるんですか?やっぱりお客さんの反応が影響として大きいんですかね。思ったのと違う反応をしてくれてるみたいな。

 お客さんの反応はそうですね。あと場所はその対象かもしれないかな。いくら脚本があっても、実際の場所が想像と違う、事前にイメージしていた表現に使えるものがない、逆にいっぱい使えそうだなんてことは影響しますよね。

 なんかすごくいいことばっか聞いて世に出したくないですね、もったいない。

アオイヤマダさんご提供:長野県松本市松本城前にて文化奨励賞授賞式後 ©️Akikoisobe

「満員かもしれないけど文脈的には全然売れていない。」

 続いてのテーマです。アオイさんの表現とガクくんのサッカーにおいて“売れる”とはなんでしょう。

 これが1番話したかったですね、正直。

 わたしは写真をメインにやらせていただいていて、ありがたいことにお仕事をいただく中で最初の頃は怖いもの知らずで撮っていましたが、だんだんと自分が表現したいものとクライアントからの要望のバランスについて悩む瞬間があります。それぞれの目線でどのようにお考えでしょうか。ガクくんから伺います。

 すみません、先に3分だけバッと話させてください。まず「サッカーにおいて売れている」とはどういう状態かを仮定する必要があると思います。これに対して、僕自身の考えではピッチで行われていることのレベルの高さは関係ないと思ってます。例えばインドネシアのサッカーは世界でもトップクラスの活気があります。スタジアムは満員で本当に信じられないくらいの熱があるし、それを見るとこれは売れてると言わざるを得ない。つまり「サッカーにおいて売れている状態」とは、スタジアムに熱がある、つまり満員でいて、かつそこにいる人が文脈を理解できている状態かなと最近は考えています。ここのスタジアムではなにが起こると心が動くかをお客さんがわかっている状況ですね。
知名度のある方をゲストとして呼んで、有名な曲を歌っていただいて、信じられないくらいにシラけるみたいなこともあるんです。サッカーのスタジアムって不思議なもので。逆に言うと全然知名度はないんだけど、そのクラブへの愛だけをうざったくスピーチしてくれるおじさんが会場を沸かせられるみたいなこともある。そしてこれが割と頻発している。だから物語と文脈が薄い、知名度とか飛び道具的なもの、それこそ試合前に花火が100発バーンと上がりますみたいなもので人が集まっている状況っていうのは、別に売れている状況ではない。満員かもしれないけど文脈的には全然売れていない。
売れると面白くなくなるみたいな話がありましたけど、これは多分そうならざるを得ないんだと思います。まず前提として興行には多くの場合スポンサーの存在があります。つまりエッジで万人が面白いって言わなそうな表現を制作側が面白いって考えてやりたいですってなったときに、最初にぶつかるのはスポンサーや内部の決裁者になるんですよね。僕は前職でかなり特殊な環境とポジションで活動させていただいていたんですけど、20代の若いひとはそういう人たちを口説けるような牌を基本的に持ち合わせていない。作る側が「これは面白いんです。だからお金を出してください」ってそもそもの構造には打ち勝てない。しかも売れていくとどんどんスポンサーや関係者が集まってきますよね。私も協力したいです、出資したいですとお話をくださるけれど、もちろん弊社視点で口も出しますっていう前提があるので、なかなかこうやりきれないっていうのがあるなと思ってます。

 具体的な話で恐縮なんですけど、日本のサッカークラブはオーナー企業が日本の会社です。僕がいた川崎フロンターレのオーナー会社も富士通でした。そこから選ばれたひとたちがスポーツエンターテイメント業界に出向してくる。今まで”日本の企業”で働いてた人たちが、急に若手が面白いとかいって持ってくる気味の悪い企画を正しい文脈で決裁しなければいけない業務と構造が生まれるわけなんですけど普通に酷な話だなと思います。僕が出向してきた大企業出身のひとなら、数年後に本社に帰ることを目指して短期的にメリットがあって事故らなそうなことだけに集中して他はどうでもいいですもん。名誉のために、僕がお世話になった大人のかたにはひとりたりともそんなひとがいなかったっていうのが先ほどの”かなり特殊な環境”なわけですけど、当人の立場になればできるだけ角が立たないものだけ承認する気持ちもわかるなって。
アオイさんの出演されていた『FirstLove初恋』はNetflixが莫大なリソースを持って監督さんに「感性そのままやってください、お願いします」って構造だったと思うので、キャスティングにも活きてきますよね。その決裁の構造自体がアオイさんって素敵な表現者のかたを知るきっかけにもなるといいますか。なので僕の「売れると面白くなくなる」に対するアンサーの根源はそこにあります。豊かになったことで丸くなるというよりもさまざまなひとに支えられて大きくなっている業界構造がそこに影響してしまうのかなと思います。

 面白いこと、エッジの効いたことをやりたいって言ってたじゃないですか。具体的に企画して落ちちゃったこととかあるんですか?

 自分の担当したものを見てみると、マスコット同士の結婚式とかいう変なものもあるので若干ブレちゃうんですけど。ひとつ印象に残っているのは、代々木で開催されてる東京レインボープライドとのタイアップを企画したときに「それをやることによって今後も継続しなきゃいけないじゃないか」って角度であまり膨らんでいかなかったことはありました。君が抜けた後にそれをやれなくなったら、あのクラブはそういった活動を継続できないんだって風に見られるじゃないかっていう議論があって企画をボツにしましたね。僕がすごい気になってるのはアオイさんが自身の売れる、売れないをどのように捉えているのかなって。

 全然売れているとは思ってないです。その基準はあんまりわからないかな。ただ知名度が上がることに関しては少し考えがあって。以前の私は別に知名度なんて上がらなくていいと思っていたんです。それよりも自分がやりたいことをちゃんとできるようにしようと意識していたんですけど、知名度が上がると私と会えたときに喜ぶ人が増えるのかなとは思いました。例えば、満島さんと同じ現場にいた時に満島さんがちょっとお茶を買いに行ってくれたんですよね。そしたらそこのスタッフさんがもうすっごい幸せそうな顔をしていて。それを見たときに、好きなひとに会うだけでこんなに幸せになれるんだって思っちゃいました。でもそれは知名度があるからですよね。もしかしたらそれは売れるってことなのかもしれないけれど、そうやって幸せになる人が増えたらいいなとは思っています。だから自分の親でも、恩師でも、友達でも、そういう人が喜んでくれていることを意識したときに、別に売れなくていいやって考えは自分の勝手なのかもしれないと思うようになりました。ただ、売れるためにやる活動と、自分の活動をした先で結果的に売れていたことは全く違うと思うので、私は後者を常に意識したいです。

 最高だ

 でもやっぱりクライアントさんがいるお仕事をするときは気を使うこともありますよ。ちょっと大きめの仕事が控えてるから、SNSに裸の写真はあげないでおこうとかさ。少し前まではそういうことを考えてエッジのきいた写真を投稿できなかったこととかもありましたけど、最近はみんなに見てほしいって思ったらそれは投稿するようにしています。加減が難しいんですけどね。

アオイヤマダさんご提供:長野県松本市の行事『三九郎』にてクリエイティブチーム海老坐禅で撮影した作品
creative team EBIZAZEN @ebizazen
ad: Midori Kawano @midori_kawano
ph: Akiko Isobe @akikoisobe
st: Chie Ninomiya @eieioieie
hm: Noboru Tomizawa @noboruok & MARI
music/ dance : Aoi Yamada @aoiyamada0624
pm/ Oi-chan @oi_chan_

「ビジュアルと精神がひとつだから。そういう意味では意識する。」

 アオイさんは表現をするときに、個性的で特徴的な衣装を着ていらっしゃると思うんですけど、ここからはお互いが“外見に関してどのように意識されているのか”を伺います。外見が表現に、企画に与える影響についてなにかありますでしょうか。

 私もまだまだ勉強中です。私のマネージャーは90年代のアンダーグラウンドカルチャーやクラブシーンを楽しんできた人なのかなと思うんです。私はその映像とか写真をいっぱい見せてもらっているんです。田代さん芝浦ゴールドってわかります?

 芝浦ゴールド?ディスコ的なやつですかね。

 そう、かつて大きなクラブが芝浦にあって。5階建てぐらいだったんですって。そこでとにかくみんなが集まって踊って、色々なことが起こっていたみたいなんです。当時の写真とかを見ると、イケてなきゃそもそもそこに入れない空気がある。だからみんな容姿に対してすごいこだわりがあるんですよね。やっぱり視覚的に入るものってすごく強いと思っていて、みていて楽しいじゃないですか。それをはじめて見せてもらったときに、洋服とか、衣装とか髪型で表現できるものは、肌の色も含めてですけどいっぱいあるんだなと思ってそこから意識するようになりましたね。

 容姿が変わることがスイッチになっている。

 美容院に行って髪色変えたり、前髪をちょっと切っただけで自分の思考とビジュアルの意識が一致してちょっと気持ちが変わるというか。ニキビができたらすごく落ち込むとか、なんて言えばいいんだろう。ビジュアルと精神がひとつだから。そういう意味では意識する。

 いいですね、その話はずっと聞いていたい。

 逆にないんですか。サッカーでこの色のユニフォームだと勝ちやすいとか、なにかに影響があるみたいな。

 勝ちやすいだと、どうなんだろう。あまり考えたことないですね。そもそもサッカーは選手とお客さんが同じ衣装でスタジアムに存在する異常空間です。ドラマを見ていて演者のアオイさんと視聴者の僕が同じ服を着ている環境はないですけど、サッカーはそれがあるし、同じものを着ていることがさっきの「売れる話」のときにも触れたようにスタジアムの熱を作るところに繋がってきます。「私たちは一緒である」と表現するためのツールとして衣装がかなり機能している。基本的にサッカークラブのもつクラブカラーはひとつなので、クラブが立ち上がったときに「黒でいきます」と決めたらずっと黒なんですね。
イメージ的には高校の制服に近いかもしれないです。僕は偏差値低めでギャル率高めな学校出身なんですけど、他校と比べて制服がちょっと可愛くて校則がゆるかったので、色んなところからギャルが集まってくるような学校だったんですね。感覚的にはそれにかなり近い。それぐらい衣装としてのパワーが人を集められるし、熱を高められるのはすごく面白いです。そのギャルたちの大半はとてもここでは書けない事情で中退していきましたけど。

 私はそういう環境に行ったことがあまりないからなぁ。どちらかといえば、みんなとどれだけ違うかを考えてしまうし。私の存在をどうやってアピール、お知らせできるかなってときに絶対にみんなが選ばないであろう色の衣装を選ぶって考え方が基本的にあるから。

 確かにそもそものルールが全く違いますからね。色分けが起源ですし。これだけは従わなければいけないどうしようもない存在がサッカーにおけるユニフォーム。だからこそデザインと出し方が非常に大切で。納得できるデザインとこういうデザインですと説明できる客との関係性がないと厳しいのかなと思います。強制的に共有しなければいけない”前提”がなんでこんなにイケてないものなんだっていう反発がいつも起こるのがサッカーです。

現在カナディアン・プレミアリーグ パシフィックFCで働く田代さんにとって初企画となった2024年シーズンのユニフォームローンチ

「批判するひとも、もどかしさやうまくいかない部分が生活の中であるのかもしれない。」

 次のテーマは“配慮と表現”です。お互いの活動を世に出すことでの誹謗中傷、SNS時代だからこそポジティブ、ネガティブなところもあると思っています。

 さきほどお話があったように意図的に人と違う衣装を着ることを意識されてるということで、それなりにネガティブな意見が見えてくるなと思うんですけど、そういったものに自分から寄せられている感覚はあるのでしょうか。これはなにか言われちゃいそうだから表に出すのはやめとこうのような、事前に危機察知していたことがどのように自身の表現に影響しているんだろうと気になっていて。

 うん、あるかもしれないです。つい最近もありました。先ほどの話からすると、どれだけ華やかな方を選ぼうとするかを考える話をしましたけど、どうしてもそういうのが好きでない人もいますよね。先日は「気を衒(てら)えばよいと思ってるだろう」ってメッセージがきたりして結構気にしちゃったんですけど、よくよく考えたら“気は衒っている”よなぁと思って。

 間違いない。間違いないんだよなぁ。

 そうなんだよね。でも一度見ちゃったり聞いたりすると、どこか意識的に引っ張られてることはありますよね。影響されます。

 僕はあまり気にしないんですけど、確かにビビっていたことはあるかもしれないです。自分の実績とか経験に全く比例していない数のひとに披露しなければいけなかったので。でもPSG(パリ・サンジェルマン)との国立競技場の試合で色々やったあたりからなにも感じなくなりましたし、なにより自分の面白いものがなんとなくわかってきてからは過度な配慮は絶対にしないって決めました。おそらく昔からテレビに出てるお笑い芸人に対して全然面白くないみたいな声ってあったと思うんですけど、テレビの前の声は直接演者に届かなかったと思うんですよね。でもいまはSNSで直接言われちゃうこともあるので、これは自分の構えを変えるしかないなって。もちろんいまの価値観、ナシな表現はしないけれど、自分のやりたいことがねじ曲がるレベルの過度な配慮はもう一切しないっていうので。それでもし嫌な気持ちになった方がいたら、それはもう「申し訳ないけどあなたは関係ない人だから無視して」っていう態度になったなと思って。で、僕はアオイさんに対してそういうタイプだなっていう風にいろんなものを見ててなんとなく思っていたんですけど、色々考えちゃいますっていうのが、すごく意外でした。

 いやぁ考えますよ。サッカーの世界もすごくファンの方が多いし、観る人が多いから大変だと思うんだけど。例えば、東京オリンピックの閉会式でパフォーマンスをさせていただいたときとかは、誹謗中傷がすごかった。日本の恥とか、気持ちが悪いとか、顔のアップの写真が送られてきて死ねみたいなメッセージがいっぱい届いたときに、すごく落ち込みました。辛かったです。だからこそ周りの人の意見を聞こうと思ったし、ネットで届くような言葉は気にしない、もし気にするだったら見ないっていう風にして。私がTwitterをやめた後、マネージャーにもそういう意見が来たらしいんですけど、彼女はその批判している人の立場に立って、会話して、結局私のこともその人のことも、どっちも救うように対応してくれていたことを昨日知りました。

 東京オリンピックの時ですよね。2年前。かっこよかったのになぁ。

 そのときに強く感じたことは、まず身近な人のことを考えたいというか。衣装とかもイチから自分で考えてるわけではなくてこういう色味がいい、メイクはこういう表現がいいんじゃないかっていうように、いろんな人が集まってひとつのものが出来上がるので、そこのコミュニケーションを第一にしようと考えるようになりました。一方でこれがわかんないやつはもういいって言い切りたくない自分もいて。そっち側の気持ちも分かりたい。なにか批判を言われたなら、そのひともなにか自分の中でもどかしさやうまくいかない部分が生活の中であるのかもしれないし、それをもちゃんと理解したい気持ちもあります。もちろん規模が大きくなったら難しいと思うけれど。だからいろんな自分がいます。あとこの分野に関しては、こういう人生を選んだって腹をくくるしかないですからね。

アオイヤマダさんご提供:東京2020オリンピック閉会式

「その人自身が共通言語となっている、そういう存在になりたい」

 残りの質問はふたつとなりました。次のテーマは“90年代のアンダーグラウンドカルチャーとご自身について”です。お互いにあの頃の日本のカルチャーを面白がっていると事前に伺っておりまして、いったいなにが刺さっているのか、いまのご自身に活かされている部分はどこなのでしょうか。ガクくんはコギャルの文化について興味があると言っていましたよね。

 はい、ここからはコギャルとしてお話します。4年くらい前にコギャルの文化をフットボールカルチャーにオーバーレイさせた本当に気持ち悪い文章をだすくらい必死に調べてたときがありました。フットボールクラブにはファンコミュニティの存在がかなり大きく影響してくるんですけど、コギャルはそのコミュニティの作り方がかなり洗礼されているように感じたんですよね。というか新興宗教のフレームに似ています。神として、安室奈美恵さんがいて、本にeggがあって、人々が集まる教会として渋谷109や奥渋、さらには彼女たち特有の言語、スラングまである。そんな熱を10代の女の子たちが作りだせていた1990年代に行ってみたいと、ずっと思っていたんですね。アオイさんのいろんな記事を拝見してるなかで、90年代のアンダーグラウンドカルチャーにかなり影響を受けてる、特に山口小夜子さんに関する記述が出てくるんですけど、そこに対して深くお話されている記事をみることができなかったので、気になっていたんです。いまよりも男性が圧倒的に有利だったであろう時代にコギャルがどう生まれたかみたいな文脈も含めて、なにがアオイさんにとって面白いと思うポイントなのか、それがどのように影響を与えてるのかって。

 なるほどねぇ。私、そんな深い話できるかな。ちょっと自分の過去を振り返ってみると、ダンスってもの自体はずっとやってきていて。でもいわゆる今のダンス、鏡の前でカウントをとりながら踊ることしかやってこなかったんです。で、どのジャンルをやってもあまりしっくりこなくて、自分にダンスは向いてないのかな、でもなんかやりたいなと思って15歳で東京に上京したんです。そこでいまのマネージャーと会ったときに山口小夜子さんを教えてもらって、90年代に面白い人たちがいっぱいいたことを知りました。飴屋法水さんや勅使川原三郎さんなどの素晴らしいダンサー、舞踊家の方がいて、これは総合芸術だなって。服もそうだし、音楽とか、演出とか、ヘアメイクも全て含まれている。だからそっちの方が私にピンと来たんです。鏡の前でどううまく踊れるかではなく、なにかを表現する、身体を使って表現することの方に興味があって。

 そういう運命だったのかもしれないですね。

うん、そうかもしれない。あとは自然とその時代を生きた方々に出会うことが多いんですよね。なぜかその人たちに、私の表現が懐かしいって言われることもあって。あの頃を思い出すとか、そういうことを言われると、自分はその当時の魂みたいなものを受け継がなきゃいけないんじゃないかって気持ちになってきて、そこにモチベーションがあるのかもしれない。こんなに素晴らしい人たちがいたんだったら、これを後世に持っていけるように自分は努力しなきゃいけないんじゃないかなって。90年代のアンダーグラウンドカルチャーって、一応プロフィールとかには書いてますけど、まだ全てがリンクしてるわけではなくて。ただ出会う人はそういう背景を持ってたりその当時を生きてる人が多かったから、その繋がりを大事にしたいっていうのがあります。

 なんだかすごく元気だなって印象を受けちゃいますよね、90年代のそういうものを見れば見るほど。まだその頃は生きてもないので全然わからないんですけど、地に根差している、経済がもっと大きく動いてた感じがするのはなんなんでしょう。活動場所がオフラインだったからなんですかね。個人的にはそれらが全くクリーンでないことも興味深くて。コギャルを調べれば調べるほど、綺麗な物語で消費していいことではないなと気がつきます。自分の下着をおじさんに売って自分らの活動の資金にしていた事実とか、なんかそういったものが普通に起こっていた。そういう自分の面白いと思ったことを特に目立たせずに小ネタとして入れておいて、同じ文脈を共有できるひとが気がついてくれてたらそれでいっかみたいな、そういう意味は結構ダイレクトに影響を受けている気がします。アウトプットが90年代っぽいものというわけでなく、引用した事実とかマインドが結構古いのかもしれない。

 あぁでもまさにそうだと思うな。だからなんかバズるとかはなんかどっちでもいいかなっていう。

 表面的でないといいますか。

 いや間違いないよ。あと山口小夜子さんはアジア人で初めてのモデルとしていろんな世界で活躍されていたので、道を切り開いてる方だなと思っていて。そういう意味で私もなにか道を開けたらなとは思うんですけどね。

 すごい気になってるんですけど、アオイさんは海外を拠点にするとかっていうのは考えられてたりはしないんですか。

旦那は海外に住みたがってて。

逆に。

 もちろん海外に行ったら得ることもたくさんあると思うんだけど、私は日本が好きだし、一方で日本の嫌いなとこもある。まずは自分の国にパフォーマンス、発信、問いかけを今後どれだけできるんだろうとはいつも思っています。私自身、まだ日本の知らないことがいっぱいあるから、もっと深く知りたい、向き合いたい気持ちもあるかな。あと私は表に出る側だから上を見すぎるのではなくて、まずは自分っていうひとつのものを作ってからそれが必要と言われるような存在になりたいんです。例えば岡本太郎が「岡本太郎」でどの国にも通じるような。小夜子さんもそうだけど、そこかもしれないですね。90年代は特にそういう人が多いなと思うんですよね。草間彌生もそうだけど、その人自身が共通言語となっている、そういう存在になりたいなって思いました。

「”TOKYO”を目指せば目指すほど、東京を見失っていく」

 最後の質問は“それぞれの東京”に関してです。アオイさんが15歳で上京されたところも背景に、世間のシーンはなぜ東京に集約されるのか。その意味、価値をどう捉えているか伺います。最後なので、ガクくんのほうから。

 僕は東京生まれ東京育ちで、日本で働いていたときも多摩川を渡ったすぐの二子新地ってところに住んでいたので生活圏はほぼずっと東京でした。日本のサッカーの話をするなら、僕の好きなサッカーはほぼすべて東京にあるけれど、日本サッカーの中心は東京でもないなと思います。それは日本を代表するクラブがないことも大きくあるんですけど。それこそアオイさんの故郷松本にも素晴らしく熱のあるチームがありますし、中心というよりは各地に盛り上がりがそれぞれある感覚ですかね。

そうなんだ、意外。

 そして冷静に東京のことを考えると、年齢的に限定されている街だなぁと思ってきました。東京で行われるいわゆる”TOKYO”っぽい物事って卒業文化がある気がします。例えばエキシビジョンとか、音楽、ファッションもそうなんですけど「あぁあの時すごく聞いてたよ」みたいなの、結構言われるじゃないですか。元コギャルで、今はママですみたいなのが代表的なそれだと思うんですけど。サッカーは実はそういうものではなくて、おじいちゃんになっても孫にまで引き継ぐみたいな文化があるんですよね。文化の受け渡しが流行としてでなくある。だから東京のサッカーチームがいわゆるブランド的なものになること自体が難しいというか。アオイさんの先ほどの言葉を借りるなら、実は地に足がついてない状況だと思うんですよね。”TOKYO”を目指せば目指すほど、東京を見失っていくというか、熱が別になくなっていく構造を作ってしまうみたいな。アオイさんの業界では、年齢を重ねることによって味が出てくることもあると思うんですけど。そもそも東京というもの自体をどう捉えているのかなとは、東京出身者としては気になります。

 それこそサッカーを見に行く感じなのかなぁ。私は上京当時に仲間を求めていたこともあるけれど、街自体に共感できるポイントと全く分かり合えないポイントが両立している場所だなと思うんですね。私がいた長野県の松本市は穏やかではあるけれど、みんなが右向いたら右向こうとか、そういう感じだったのかなと当時の自分は思うから。こんなにも多様な人たちがいて、でもその多様さで繋がり合ってるみたいな感じ。最近、東京QQQっていう小人症の方や車椅子のダンサーさん、ドラッグクイーンの方とのユニットをやっているんですね。多様のさらに多様みたいなひとたちが集まって9人ぐらいでパフォーマンスしているけれど、多様の中にも繋がれる部分があるんです。過去のトラウマだったり、思い出、個々に内在してる自分のテーマみたいなのがあって、それをパフォーマンスで外にだす。ただ自分にスポットライトを当てるだけでなく、誰かにコミットできたときに自分の居場所を見つけることができる。その居場所を見つけたことによって、やっぱり私も生きてていいんだって思う、私この人のためになにかできたと共感できる仲間が集まってて。やっぱそれって東京でなければ9人も集まらないと感じてるから、人と人が繋がるという意味では東京は特別ですよね。

 なんだか僕がロサンゼルスに求めたものに近い気がします。東京が云々っていうよりも、なにかを捨てて、置いて、その場所に来た人が刺激を受けやすい場所なのかもしれないですよね。日本ではそれが東京になりやすい。

 お互いが求めてるからくっつく。知り合った人がすぐ後ろを通ってるのに絶対交わらなかった世界線もあるわけで、それが不思議なところかな。ちょっとひとつ前のテーマに戻ってもいいですか。

 もちろん。

 いまはこう、映像とかSNSで事前にこういうものがあるって知ったうえでなんとなくのコピーを生み出してるような感覚になるんだけど、90年代はそういうツールがなかったからその中で生み出されたものってすごく強いなぁっていうのは思いました。ここの魅力が私にとっての90年代にはあります。

 あぁ確かに。

 いや、もう本当、話したいこといっぱいあるんですけどお時間でして。

 えぇ、もう。アオイさんPerfect Daysの感想DMしますね。バンクーバーでは2月中旬に観られるみたいなので。

 ぜひぜひ、また日本でも。

分解後記

Zoomの接続を切って、あらためてアオイさんとの話を思い出し、あぁ少し昔の日本に魅力を感じわかるなぁわかると、寒い部屋の中で震えていた。しかもその感情に影響する大きな要因が「便利すぎる社会」だったりするわけで、つまりSNS的なコミュニケーションがなかった時代に大きなジェラシーを感じるってことである。見えないものを見ようとしてスクリーンを覗き込んだとしても、そこにあるのはせいぜい背伸びをした一生ハグもしないであろう知らないひとの作られた非現実だったりして、しかもそれになぜか嫉妬してしまうような現実だったりする。でも、もしかしてそれこそがその人のリアルを写しているのかもとも思う。だって、芝浦ゴールドで着飾っていたあの人たちの日常だって、そんなわけがないのだから。そもそも見えなかったのだから。

あぁ。

今度アオイさんにお弁当ダンス教えてもらお

PROFILE

アオイヤマダ
アオイヤマダ
2000年生まれ。アーティスト、俳優、モデル。東京2020オリンピックで閉会式ソロパフォーマンスを行い注目を浴びる。22年放送の『First Love初恋』(Netflix)に出演。ダムタイプ『2020』や舞台『星の王子さま』に出演。 自作のお弁当を展開させた作品『おべんとうのおと』を発信。生き様パフォーマンス集団『東京QQQ』のメンバーとしても活動中。現在公開中の映画『Perfect Days』にも出演している。photo:©️hoashimunehiro

PROFILE

田代 楽
田代 楽
カナディアン・プレミアリーグ パシフィックFC マーケティンググループ。26歳。バンクーバー在住。 大学卒業後、Jリーグ・川崎フロンターレでプロモーションを担当。国内のカルチャーと融合した企画を得意とし、22年、23年のJ開幕戦の企画責任者を務める。格闘技団体「RIZIN」とのタイアップを含む10個以上のイベントを企画・実行。配信しているPodcast「Football a Go Go」はポッドキャストランキング・スポーツカテゴリで最高6位入賞。Instagram:@gaku.tashiro

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