FOOTBALL

『「僕の人生は、アルゼンチンと鎌倉で大きく変わった」場所を変えることで見えた世界』|河内一馬

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photo by Kazuki Okamoto / text by Kazuki Okamoto

2022年9月25日。六浦FCとの一戦で鎌倉インターナショナルFC(以下、鎌倉インテル)は3-4で敗北を喫した。

「なぜ勝てない。」
「来年も2部で過ごすのは本当に勘弁してくれ。」

一時は自力昇格が途絶え、筆者のわたしも鎌倉インテルのひとりのファンとして、チームの現状に嘆くことさえあったが、そんな状況でも河内さんは「冷静だった」と話す。

「今だから言えるんですけど、今年は何が何でも昇格するということを決めていました。単に覚悟を決めるということではなく、試合に負けたり、重要な選手が怪我をしてしまったり、そういったネガティブなことが起きた時に、『いや、でも今年は昇格するって決めてるから』という、常に着地点に立つことができていたので、自力昇格がなくなってときも比較的冷静に考えることができました」

2022年12月18日。鎌倉インテルは4シーズンぶりに昇格を達成、クラブ史上初の神奈川県1部リーグへの昇格を果たした。

「嬉しかったというよりホッとした。」
2021年に同チームの監督兼CBO(Chief Branding Officer/ブランディング責任者)として就任した河内一馬から出る言葉は冷静そのものであった。

「明らかに1年目とは違ったと思いますし、昇格決定戦でも負ける気配は全くしなかった」
と河内さんは当時を振り返りながら話す。

「試合に勝った瞬間も結構覚えていますし、自分の中で取り乱している感覚はなかったのですが、コーチ含め選手が泣いている様子は全く予想していなくて、その瞬間はぐっときましたけど、最後に駐車場でお祝いをしているときには、来シーズンのことを考えていたり、比較的冷静でした。」

CBO(ブランディング責任者)としての河内一馬

河内さんは現在同クラブの監督業だけではなく、ブランディング責任者としても手腕を振るう。
就任当初に行ったクラブのリブランディングは成功と言って間違いないだろう。

河内一馬氏はCBOに就任して間も無くクラブのエンブレムを変えた

「監督としてチームのマネジメントや練習メニューの作成、試合に向けての準備を行いますが、チームの活動自体は平日2回と土日しかないので、実際は週4日間しかピッチには立っていないんです。なのでそれ以外はブランディングに関する業務を行っており、例えばデザインやグラフィック、プロダクトを作る時にデザイナーに指示を出したり、もっと大枠としてはみれば、ブランディングの特徴としては長期視点で考えることが多いので、『来年の頭に何をリリースするのか』『来年以降の3年間でどのような歩みを進めていくのか』『コンセプトはこれでいいのか』そういったことを日々考えて資料に落としてクラブの人と話合いをしています。」

なんで僕はサッカーをやってんだろう

小学校2年生”ごろ”からサッカーをはじめた河内さんは当時の記憶があまりないようだ。サッカーを始めた理由も覚えていないことが後に「『なんで僕はサッカーやってんだろう』と考えるひとつのきっかけになった」と話す。

「18歳でサッカーを辞めて、本当に燃え尽きたというか、中学校の途中ぐらいからサッカーをやめたいのかもしれないなと思いながらもなかなか辞められずに時間を過ごしていたので、18歳のときは、よくも悪くも『やっと辞められる』というか、『気持ちよく辞めれる』という感覚があったので、今後はサッカーから離れようと思ったことも結構ありました。」

高校卒業後、河内さんは「全く違う職業に行くために保育士の学校や、心理学を学べる専門学校を探していた時もありました」と話すが、当時はサッカー以外の選択肢に対して確信を持つことができず、当時の河内さんは意外にも「周りにどう思われてるかとか、周りの人がどう自分のことを評価するのかすごく気にする性格だった」と話す。

そして最終的に出した答えは「東京を出る」ことだった。

「自分のことがあまり好きではなかったので、自分を変えるために自分のことを誰も知らない場所に行きたいという気持ちがありました。地方にサッカーの専門学校があることを知り、『手に職をつけようかな』と思い、トレーナーの学校に通いながら鍼灸師の学校に夜間で通ったり、当時は二つの学校に通っていたので、『メディカルトレーナーやフィジカルコーチといった道に進むのかな』と何となく思っていた時期はあったんですけど、実際に学校に行ってみて『全く自分の求めていることではないな』と気づき、外からサッカーを見ることに楽しさに気づいた瞬間があって多分19、20歳ぐらいのときに『監督になりたいのかもしれない』って思うようになりました」

表現者としてのジョゼ・モウリーニョ

モウリーニョがインテルを率いていた時のインタビューを見て心を突き動かされたと河内さんは話す。

「何かを表現している感覚といいますか、『自分が思うサッカーはこういうものなんだ』っていうことを監督という立場を使って表現をしている姿に憧れたというのはありますね。僕はサッカーのコーチになりたいとか、指導者になりたいという発想から『プロの監督になろう』って思ったわけではなくて、モウリーニョやヨーロッパの監督を見て、『この人たちめちゃくちゃかっこいい』といった憧れのようなものを持ち始めたので、今もそうなのですが、サッカーを誰かに教えたいという感覚は全くないです」

人生ではじめて味わう挫折

「サッカーを学ぶなら海外」と決めていた河内さんは専門学校を3年で卒業し、母校で指導者としてのキャリアを歩みはじめる。そして指導者をしながらアルバイトで生計を立て、同時に海外へ渡るため知人や留学エージェントの方にコンタクトを取りはじめた。しかし彼らとのビジネスライクな会話に違和感を覚え、誰かに頼ること、あるいはエージェントを使って海外に行くことはやめ、一度旅に出る決断をする。それは23歳の時だった。

「当時はTwitterすらやっていなかったと思うんですけど、Webで記事を書いて、それによってスポンサーをつける。あるいはそれによって話題になり、自分自身の名前を売って何かしら利益に繋げるというのをヨーロッパにいる時に考えてやってみたんですけど、結果は全然駄目でした。その時の『失敗しちゃったな』という人生ではじめて味わう挫折感が『25歳になったら自分の力だけでアルゼンチンに行こう』と決めるきっかけになりました。それこそ企業やメディアへスポンサーシップを持ちかけにプレゼンをしたこともありましたし、そのときは誰もやってないようなことをやってみた結果、クラウドファンディング含めうまくいったという感覚です」

南米のサッカーを見ないで、「世界を見た」と言えない

「当初はヨーロッパに憧れがあったのでヨーロッパに行こうと思ってたんですけど、どこの国もしっくりこなかったんです。また当時はライセンス制度に異議を唱えていたので、どうすればその制度に対して、批判的な態度を取れるか、逆にそれを自分の行動によって変えることができるのか等、そういったことも同時に考えてたので、それこそ自分自身をブランディングして目立たなきゃいけないとも思っていました。そのほかにも生活費は高いより安い方がいいとか、ビザは取りやすい方がいいとか、インパクトがあった方がいいとか、英語は後からでも学べるけどスペイン語はなかなか学べないからスペイン語圏がいいとか、ライセンスが日本人でも取れるかどうかとか、そういった様々な条件がピタッとはまったのがアルゼンチンだったので、今考えてもアルゼンチン以外の選択肢はなかった」

アルゼンチンとサッカー

「現地にいる日本人の人たちが言うのは、ブラジル人は本当に陽キャラといいますか、根が明るくて、それこそカーニバルみたいな人たちなんですけど、アルゼンチンは歴史的に見ても反骨心とか、戦う姿とか、異を唱える姿とか、そういうのがすごく似合う国民だなと思います」

河内さんは続ける。

「アルゼンチンの選手って絶対みんなハードワークするんですよ。ちょっとチャラついて、技術だけでうまくやるような選手はアルゼンチンでは全く評価されないのでネイマールのような選手は出てこないです。アルゼンチンにおけるサッカーは、単なるスポーツという括りにはおさめることができません。」

「日本と同じような部活でサッカーをするという文化はもちろんなくて、僕が住んでた町も小さな町ではあるんですけど、サッカーがすごく盛んな町でプロサッカークラブが2つあったので、大きなスタジアムが目と鼻の先に2つある地域なんですけど、そこにはサッカークラブがたくさんあって、子供たちが小さいときから社会人になっておっさんになるまで一貫してサッカーをするクラブがたくさんあるので、基本的にみんなそこでサッカーやっています」

写真提供:本人

筆者の気持ちを書きなさい

アルゼンチンで過ごした3年間は学校に行く時間以外はあまり予定を詰めず、机に向かう時間も多かったようだ。

現地でコロナ禍を迎えたこともあり、初めて経験する24時間の自由。
河内さんがアルゼンチンで執筆した数々の記事は日本で大きな話題となった。

https://note.com/kazumakawauchi/n/ncee2a013d6ba?magazine_key=mbf1c1708bab9

常に意味を考えながら生きてきたのは子供のころからの癖らしく、「国語のテストで『筆者の気持ちを書きなさい』という問いに対して答えが出た時、『なんで先生にそれがわかるんだ』と頭の中で反抗しているような子供でした笑」と河内さんは話す。

河内一馬が考える「ブランディング」とは

河内さんが初めてブランディングに興味を持つきっかけとなる一冊がある。

『BRAND』著 岩田松雄

「20歳くらいの時にこの本でブランディングという概念を初めて知ったので、ご飯を食べるのを忘れるくらい、1日で読み切るほど楽しかった記憶があります」

「改めて『ブランディングってそもそも何だろう』と考えた時に、ブランド自体に何かの意味をつけたり、そのブランドがもつ意味を育てたり、そういう行為なんだなと最近は思うようになってきました。意味を管理して、伝えていくことです。」

「一つのサッカークラブをつくるということは、つまりブランディングである」

欧州や南米のサッカーを目の当たりにし、サッカーが社会に与える影響の大きさを肌で感じた河内さんは、「日本にもまだまだポテンシャルがある」と話す。

筆者のわたしもこの点に関して大きく頷く。

「日本ではまだまだやってないことがたくさんあって、かつ方法として根本的に間違っているけれども誰も気づいてないことがあったりとか、そういったことはたくさんあるんじゃないかなとは思っているので、そこに対して自分ができることをしていきたいという思いはあります。」

河内さんは続ける。

「もっと具体的に話すと、今までにはないレベルの熱狂というか、興奮度みたいなものをサッカーで作ろうと思ったときに1試合だけでは到底無理で、『どういうクラブを』『どういう場所で』『どういうファンたちと』といった、全ての要素が相まってこそ、そういったものができると思ってるので、長い目を見てサッカーというものを作っていくという感覚が強く、海外で自分が見た景色を日本でも見たいなという思いはあります」

「ただその中で、アルゼンチンのボカ(ボカ・ジュニアーズ)は唯一無二というか、あの雰囲気をつくることは諦めています。絶対に作れないものなので。これから先何かを忘れかけたらボンボネーラに行ってサッカーをみたいなと思います」

そんなボカとは対照的に昨今の欧州サッカーにおけるスーパーリーグ構想や伝統的なサッカークラブが中東のオイルマネーによって購入される現状に対して「今までのような憧れは薄れてきた」と話す。

「なので今自分が小さな規模ですけどサッカークラブに関わってるので、自分が本当に誇りを持てるクラブにしていきたいということしかあんまり考えていません。」

そのクラブとは当然鎌倉インテルである。

河内一馬が描く鎌倉インテルの未来

最後に筆者からどうしても聞きたかった「鎌倉インテルの未来」について伺った。

「いつも僕が思うのは、将来鎌倉の街に大きなスタジアムができて、そこには日本人も外国人もいるし、観光客がいたり、あるいは熱狂的なファンがいたり、女性やお年寄り、そして子供がいたり、自分たちが掲げている『CLUB WITHOUT BORDERS』というものを体現するスタジアムが鎌倉という街にできたときに初めて大きな意味を持つんじゃないかなと感じています。」

「今まで誰もできなかったことができるんじゃないかなと本気で思ってるのでそこを目指して、そこに向かって時間を進めてるっていう感覚が一番強いんですけど、ただ今すごく思うのは、選手も含めてクラブの中にいる人たちが本当に自分たちのことを誇って、幸せに仕事をしている状態を作ることがまず何よりも大事なんじゃないかと思い始めています。ある意味でブランディングって、外に向けて行われる行為だなとは思うんですけど、一方でその組織のために必要なことだったりとか、中の人たちに向けたアクションだったりとか、そういった意味合いもすごく大きいと思うので、やっぱり自分が幸せになりたいし、一緒に働いてる人たち、選手みんなが幸せでいてほしいので、それを実現したいなと思っています。」

PROFILE

河内 一馬
河内 一馬
1992年生まれ、東京都出身。18歳で選手としてのキャリアを終えたのち指導者の道へ。国内でのコーチ経験を経て、23歳の時にアジアとヨーロッパ約15カ国を回りサッカーを視察。その後25歳でアルゼンチンに渡り、現地の監督養成学校に3年間在学、CONMEBOL PRO(南米サッカー連盟最高位)ライセンスを取得。帰国後は鎌倉インターナショナルFCの監督に就任し、同クラブではブランディング責任者も務めている。その他、執筆やNPO法人 love.fútbol Japanで理事を務めるなど、サッカーを軸に多岐にわたる活動を行っている。

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