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新川諒のシゴト観。「常にワクワクする仕事を選択してきた」

interview |

photo by Kazuki Okamoto / text by Kazuki Okamoto

現在の新川さんの仕事

大学を卒業した後、メジャーリーガーの通訳としてキャリアをスタートさせた新川さん。
現在はワシントン・ウィザーズ(NBA)を含め契約先は多岐にわたる。

ワシントン・ウィザーズ(NBA):マーケティングマネージャー
シンシナティ・レッズ(MLB):コンサルタント
NHK:BSスポーツ中継
BSMI:ラグビーのエージェント業務
長崎ヴェルカ(B.LEAGUE):SNSコーディネーター

しかし、これはあくまで一例となり、他にもプロジェクトベースで様々な組織と仕事をしているようだ。

「常に自分がワクワクする仕事を選択してきた」と話す新川さんが、どのようなキャリアを歩んでこられたのか、本人に話を伺った。

通訳としての原点

大阪で生まれた新川さんは、2歳半の時に父の仕事の都合でアメリカへ渡り、小学校6年生の夏までの約10年間をシアトルとロサンゼルスで過ごした。
特にロサンゼルスには日本からの転校生が多かったため、学校の授業では自身が通訳の役割を担うことが多かったようだ。

「言語の部分で苦労はあったと思いますが、まだ2歳半だったので正直そこまで覚えていないんです。ただ、LAには日本からの転校生が多く、学校の授業で先生が話している内容を通訳する等、無意識に彼らをサポートする立場にいました。久しぶりに会った当時の友人たちには今になって感謝されるんですよね」

通訳としてのキャリアの原点は、ここにあるのかもしれない。

「大好きなスポーツに関わりたい」

小学校6年生の夏に日本へ帰国した新川さんは、中学受験で帰国子女の多い同志社国際中学校へ進学。同志社系列の学校へ進学したこともあり、大学までの内部進学が通例。しかし、「将来は大好きなスポーツに関わりたい」という強い思いから、高校卒業後、スポーツマネジメントを学ぶためにアメリカの大学へ進学することを決意した。

本人自らアメリカの大学への受験方法やスポーツマネジメントのプログラムを提供する大学を調べ、「とりあえず受けてみよう」という気持ちで9校の大学を受験し、合格した大学の中からオハイオ州にあるリベラルアーツを教育理念とするボールドウィン・ウォレス大学(Baldwin-Wallace University)へ進学した。

マイノリティの立場として学校から求められたこと

当時のボールドウィン・ウォレス大学に在籍する学生の多くは地元の白人学生であり、日本人は2、3人しかいなかった。そのような異国での生活環境に馴染むまでには約半年の時間を要し、気付けば卒業まであと3年半という状況に迫っていた。
大学卒業時には、アメリカのプロスポーツ業界でのキャリアを志していた新川さんは、「焦りを感じていた」と当時を振り返る。

そんな焦りから、大学内に存在するスポーツインフォメーションオフィスにアプローチ。この部署では大学内の20以上の競技チームの選手たちの情報をまとめたり、メディアとの連絡調整など、主に広報業務に携わる役割を果たしていた。新川さんはこの部署で働くために直接交渉し、その際に担当者から言われた言葉は「今でも鮮明に覚えている」と話す。

「君のようなマイノリティの生徒が、直談判してくることは今までになかった。地元の白人学生が多く在籍する中で、君のような存在が入ることで、考えが固まっていた生徒たちにとっても、ものすごく良い刺激になると思うから、ぜひここで働いてほしい」

この経験が後に※クリーブランド・インディアンス(MLB)にインターン生として採用されるきっかけにもなった。
※現在の球団名はクリーブランド・カーディアンズ

アメリカにきて正解だった

「アメリカだけではなく、ヨーロッパのスポーツ文化も学びたい」という思いから、大学3年生の時にイギリスへ交換留学を行った。アメリカとは異なるスポーツに対する考え方は特に印象的だったようだ。

「当時の欧州では肥満率の上昇やタバコ問題といった社会問題が浮き彫りになる中で、スポーツを通じてこれらの問題を解消しようとする動きが広がっていて、スポーツに対してエンタメ要素の強いアメリカとは異なる部分を見ることができました」

イギリスに滞在する中で「小林雅英投手、クリーブランド・インディアンスと契約」というネットニュースを見た新川さんは「クリーブランドという街でこんなチャンスが巡ってくることは錚々ない」と思い、イギリスから大学の教授や球団関係者に向けて一斉にメールをし、最終的に面接を経て、見事インディアンスのメディアリレーションズのインターン生としてチームのキャンプから帯同することになった。

「履歴書を提出したときに一番見られたのは『大学で何をしているのか』でした。単に通訳として日本語と英語を話せるだけであれば、受かっていなかったかもしれません。スポーツインフォメーションオフィスで働いてることで、英語を話すこと、文章を書くことについても問題ないと判断されました」

新川さんは続ける。

「メジャーリーグの球団は、毎日試合や選手たちの記録をメディア用に作成します。その作成を手伝ったり、マイナーリーグで活躍してる選手やメディアに取り上げてもらいたい選手のリストを作成したり、他にも記者会見の準備やメディアとのやり取りだったり、大学生インターンとして通常業務をこなしながら、選手の通訳のサポートや日本からのメディア対応もできるということが、採用のきっかけになったと思います」

さらに、大学4年生の頃には、大家友和(現:横浜DeNAベイスターズ二軍投手コーチ)がインディアンスに加入したことから、大家が主催するチャリティプログラム「大家友和ドリームツアー」の運営サポートにも携わる等、「この時に初めてアメリカにきて正解だと思えた」と話す通り、充実した4年間の学生生活を過ごした。

通訳業に一区切りをつけて日本へ帰国

大学を卒業した後、学生ビザを延長し、9月までインディアンスに残った新川さん。その後、インディアンスの関係者から「レッドソックスで新しい通訳を探している」との連絡を受け、松坂大輔、田沢純一、岡島秀樹が在籍していたボストン・レッドソックスで1年間通訳として勤務。

その実績が評価され、西岡剛(ミネソタ・ツインズ)、藤川球児(シカゴ・カブス)といった日本人選手の通訳としてキャリアを築く中で、「自分で何かを成し遂げたい」という思いが強まり、通訳業に一区切りをつけて日本へ帰国する決断をした。

固執せず、ワクワクする仕事がきたらすぐに動けるように

バイリンガルという武器を活かし、20代前半を通訳として過ごした新川さん。帰国から約10年が経過し、今ではエージェント業、SNSコーディネーター、スカウティング、スポーツ中継、ライターなど、「今の職業が何なのか分からない」と本人が話すほど多岐にわたる分野で活躍されている。

最後に、これからのキャリアについて尋ねると、新川さんは微笑みながらも少し困った表情を見せつつ答えてくれた。

「自分の性格的に、『これをやりたい!』って一つの選択に固執してしまうと、身動きがとりにくくなり、他の可能性を逃してしまうことがあるんです。だからこそ、面白そうな仕事の話が舞い込んできた時には、明日からでもすぐに動けるように、常に柔軟性をもっておきたいと思います」

あとがき

新川さん、いや、新川先輩と呼ぶべきであろうか。
偶然にも、小学校6年生の夏に帰国した新川さんが通っていた小学校に、筆者の岡元も通うこととなる。
駅からは少し離れているが、今でもあの小学校のエリアは住みやすさの観点から大人気らしく、同エリアに家を建てたいと願う地元の友人も「土地は高いし、そもそも土地全然ないねんけど」と嘆いている。
話は逸れましたが、同志社の付属中学校に進学して、同志社大学には進まずアメリカの大学に行くだなんて、敬意を込めて「クレイジー」な新川さん。
いくら入学よりも卒業の方が難しいと言われるアメリカの大学でさえ、9つの大学を受けて8つの大学に合格するなんて凄すぎます。
今回の取材の中で、「アメリカにきて正解だったと思えた」と新川さんは話していましたが、「正解にした」のは新川さん。
今回の記事は、現在アメリカの大学に通っている学生さん、もしくはこれから新川さんのような仕事を目指す方に読んでもらいたいなという思いを込めて書きました。
新川さんのように、自分が決めた道を正解にするまでやめない姿勢をぜひ感じ取っていただければ、とても嬉しいです。

PROFILE

新川 諒
新川 諒
現在はNBAワシントン・ウィザーズのマーケティング・マネージャー、そしてMLBシンシナティ・レッズではコンサルタントを兼務。フリーランスとしてスポーツを中心にライター、通訳、コンサルタントとしても活動。MLB4球団で合計7年にわたり広報・通訳に従事し、2017年WBCでは侍ジャパンに帯同。また、DAZNの日本事業立ち上げ時にはローカライゼーションも担当した。

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