BASEBALL

「週7日、野球に関わる生活を。」死ぬまで野球人であるために、元ヤクルト・副島孔太が大切にする逆算思考。(GXAスカイホークス監督)

interview |

photo by Kazuki Okamoto / text by Reiya Kaji

 2001年、日本シリーズ第4戦。ヤクルト2勝、近鉄1勝で迎えた第4戦。同点の7回裏に代打で登場し、神宮球場の夜空に決勝アーチを架け、ヤクルトファンの心に強い印象を刻んだ男。今回の主人公は、元ヤクルトスワローズの外野手・副島孔太。

 若松勉監督率いる当時のヤクルトは、日本プロ野球の歴史でも錚々たる打撃陣だった。古田敦也、岩村明憲、宮本慎也、ロベルト・ペタジーニ、稲葉篤紀、アレックス・ラミレス、真中満、土橋勝征……歴代クラスのオールスターメンバーの中にあって、副島はその卓越した打撃センスでいぶし銀の輝きを放った。

 副島は引退後、様々な仕事を経験したのち、現在は 神奈川県大和市のクラブチーム・GXAスカイホークスで監督を務めている。さまざまな事情から高校野球・大学野球を辞めた選手たちが、もう一度上の舞台を目指すために環境が整えられたチームだ。監督を務めるのは、今年で10年目になる。桐蔭学園高校で甲子園出場、進学した法政大学でも躍動するなどエリート街道を歩んできた副島から、そのチームはどう見えるのだろうか。自身のこれまでの野球人生を振り返ってもらいながら、グラウンドで話を聞いた。

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雨が降る9月のグラウンド。大和市のドカベンスタジアムが、GXAスカイホークスの本拠地。朝9時から始まる練習には、すでに10人ほどの選手が集まって体を動かしていた。「環境は素晴らしい、あとはやるだけという状態にしたい」という副島監督

「最先端」だった桐蔭学園。プロへの「現実的な距離感」をつかんだ法政大学での日々。

ー本日はよろしくお願いいたします。副島監督が野球を始めたのはいつからでしたか。

副島:小学校1年生くらいの時にはクラブチームに所属して野球をやっていましたね。時代的にも人気のスポーツでしたし、周りに野球をやれる場所もたくさんあって、ずっと遊びのような感じで続けていました。

ー「時代的に」ということですが、進学先の桐蔭学園高校では5回中2回の甲子園出場を果たしています。指導は厳しかったのでしょうか。

副島:いえ、今思うと当時の桐蔭学園は最先端だったような気がします。

ー最先端。

副島:勝つことが目標の中で、生活指導は厳しかったけど、先輩が下級生に何かをさせるということもなくて。掃除もみんなでやっていたし……遠征できた他の高校では、後輩が先輩に頑張って気を遣ってる姿をよく見ていましたが、それが当時のスタンダードだったんですよね。周りのレベルも高くて(※)、プロを目指してやっていましたが、大学には行きたいと思っていました。
※1学年下に高橋由伸(元巨人)、1学年上に高木大成(元西武)が在籍しており、2年次には副島と共に強力打線を形成していた。

ーその後進学された法政大学では、後にプロでもチームメイトとなる稲葉篤紀さんとの出会いもありました。

副島:そうですね、2年先輩で稲葉さんが先にプロに行きました。その時に、初めて現実的にプロ野球への距離感がわかりました。みんなプロに行きたいとは言うけれど、じゃあ自分の現在地がどこで、どれくらいの努力をすれば辿り着くのかを理解するのは難しい。あの時点でそれを把握できたのはよかったなと思います。

「打球が前に飛ばない」ところから、「日本シリーズで代打本塁打」を放つまで。

ー96年のドラフト5位でヤクルトに指名され、97年にプロ1年目を迎えました。最初にプロの壁を感じた瞬間はありましたか。

副島:1年目はすごく厳しかったです。キャンプで一軍に連れて行ってもらいましたが、最初のバッティングピッチャーが高津(=臣吾、現ヤクルト監督)さんとブロス(NPB通算30勝、95年にシーズン14勝)で……打球が全く前に飛びませんでした。これは難しいな、と。チームの雰囲気にも緊張感にも慣れていないですし、全て足りなかったです。技術も空気感も、プロの当たり前についていけてないのを感じていました。

ーありふれた言い方をしてしまうと「プロとアマの差」であり、「1軍と2軍の差」でもあるように感じます。

副島:そうですね。1軍と2軍は、まずお客さんの入り方が全然違いました。僕はお客さんが入っている方が好きでしたが、1打席、1球のプレーの重さの違いはすごく感じます。

ー1軍での打席の方が、成長に繋がるんですね。そういう緊張感の強い環境でプレーするにあたって、何が必要でしたか。

副島:人間力の差、慣れ、自信を持って開き直ることができるか、だと思います。そして、自信を持つには、日々の練習に根拠を持ってできたかが大きく関わってきます。どんなことであれ、周りに認めてもらう作業をしていました。例えば、2年目まではキャンプ〜オープン戦まで、「一日一善(=1試合で1安打)」はクリアできるように強く意識していました。実績のある人とない人で、試合に使ってもらえるかどうかは差があるので、外せないような成績を残したいなと。明確な目標があることがすごく大事だと思います。

ー法政大での「現在地を理解する」という話もそうですが、逆算する思考を常に持たれているように感じます。

副島:小さい頃から算数は嫌いじゃなかったですね(笑)。答えがあって逆算できることはやっていましたし、行き当たりばったりでやるというよりは簡単で当たり前のことをやっているという意識でした。特別なことをしているつもりもなく……ただ、それが自信を作っていって、自然に開き直れるようになったのだと思います。そういう時は、良い結果が出ます。

ー日本シリーズでの逆転ホームランのときも、「自然な開き直り」ができていたのでしょうか。

副島:あの年はシーズン成績としてあまり良くなくて、2軍打撃コーチの角(=富士夫、ヤクルトの正三塁手として80年代に活躍)さんとレフトにホームランを打つ練習を続けていました。代打は前の回から準備していて、次の回ピッチャーのところで先頭で出るぞ、とわかっていました。本来なら先頭打者として出塁することを考える場面でしたが、ホームランを打つことしか考えていませんでした。でも最初の2球を空振りしてしまって……まああれだけやってきたし打てなくてもしょうがないか、と開き直ったら、ボール気味の難しい打球をホームランにできました。

グラウンドで、野球を一生懸命にできるかだけを見る。結果を出すための努力と、正しいアプローチを。

ーその後、2002年にトレードでオリックスに移籍されました。セ・パのリーグの違いは感じましたか?

副島:突然のトレードで、6月にヤクルトで優勝争いをしていたときから下位のチームへの移籍でした。少し厳しい言い方になってしまいますが、ヤクルトは「チーム」で、オリックスは「個人個人がただ野球をしているチーム」という印象を受けました。自分なりに緊張感を持ってやっていましたが、2004年に近鉄との合併の話が出て、戦力外通告を受けました。若手より自分のほうがやれる、とも思いつつ、外様だしな……と。その後トライアウトも受験して、年末年始くらいまでいくつか話をしましたがダメになり……引退後の生活を考えるようになりました。

ー引退後の生活では、すごくいろんなことに挑戦されている印象です。

副島:茨城ゴールデンゴールズで指導者として2年、友達の飲食店を手伝いながら社会人野球を3年、その後アロマを売ったり塾を経営したり野球の指導もやったり……相談いただいたお仕事は金額関係なく自由にやっていて、でも野球に関わりながら死ぬまで生きていけたらな、とは思っていました。

ー現在に至るまで10年間監督をされているGXAスカイホークスとは、どのような出会いだったのでしょうか。

副島:GXAの社長から単発の野球教室の依頼をいただいたのが最初です。その中で、「途中で野球を辞めちゃう子の受け皿になるチームを作りたい」という構想を聞きました。そもそもそんな子がいるの?というのが最初の感覚でした。

ー自身がいわゆるエリートコースを歩んできた中で、そういう選手たちへの接し方について考えることはありますか?

副島:入団前に簡単に経歴等を聞くことはありますが、グラウンドに入ってしまえば、そこに至ることは一切聞かないです。ただグラウンドで野球選手としてどうできるかだったり、人間性の部分を見ます。あんまり偏見もなく、とにかく「野球に一生懸命になること」と伝えています。ただ、そもそも人間性や心の部分は「自分たちの範疇ではない」と感じることもあります。親御さんが一番選手たちと接する時間が長いと思うので、僕らができるのはベクトルをちょっと変えるくらいのことだと思っています。今、中学のリトルリーグのチームの総監督もやっていますが、普通だったら高校に行った方が良いです。スカイホークスは、どうしても行く場所が無くなった人のための場所です。時々プロを本気で目指す選手から「ここに来たい」とポジティブに志願されることもありますが、高校野球で甲子園を目指した方がいいと思っています。

ー最近はプロ野球やMLBへの最短ルートとして、高校野球部に所属せずにクラブチーム等で腕を磨くことを目指す選手も出てきていますが、副島監督はそういう選手たちをどう見ていますか。

副島:うーん、今は本当に情報が溢れているので、正しい選択をしてほしいなと思います。100人そういう考えの選手がいて、1人うまくいくことがあるかないかの世界だと思うので。自分が決断したことで後悔がない、と思うならやったらいいと思います。ホームランを目指すにしても、まずはバットに当たらないといけないですよね。結果を出すための努力と正しいアプローチをしてほしくて、途中の過程を飛ばすと変なことになるような実感はあります。

ー情報が溢れているが故に、選択肢が増えすぎているのかもしれませんね。

副島:今はもう昔の指導者のように経験だけの話では通用しないですし、最新の理論がハマる子はハマる。それでも、今の子どもたちの方がたくさんのものから自分に合うものを選び取らないといけないので、大変だと思います。そもそも力のない選手はある程度半強制的な練習の方が一定のレベルまでは早く到達すると思います。

週7で、いろんな世代の野球に関わる仕事。長く続けるために求める、自身の成長。

ー死ぬまで野球に関わりたい、という気持ちで引退後の生活を送る副島監督ですが、いまはどういう1週間を過ごされていますか。

副島:朝はスカイホークスの練習を見て午後は野球教室、週末は高校の外部指導や少年野球のチームを見ることもあります。個人のレッスンも受けてますし。今日のような立派な球場にも、河川敷の近くの球場にもいますよ。結果、週7でいろんな世代の野球に関わる仕事ができています。

ー監督であったり外部のコーチであったり、関わるチームによっても立場が変わると思いますが、それぞれでどんなことを考えていますか。

副島:スカイホークスみたいに全責任を引き受けるのはもちろん楽しくて、サポートとして入る時はチームの勝敗に直接関わっていない分もどかしさもありますが、外から見てどう結果に繋げるか?を提案して指導するのは難しくもあり楽しい作業です。一つでも結果につながった時は充実感もあります。スカイホークスで結果が出た時には、ほっとするというか、安堵感の方が強いですかね。

ー指導者としての、野球への情熱がすごく伝わってきました。最後に、今後やりたいことや目指すものを教えてください。

副島:いまやっていることのクオリティをもっと上げたいです。本当はもっと勉強したいんですよね。技術的にはもちろんですし、監督をやっていく上ではマネジメントや喋り方も。頭を回転させる隙間を作るための時間のコントロールは、もっと精度を上げたいです。

ーある意味では、現役時代よりも忙しい日々を送っているのではないでしょうか。

副島:でも、スケジュール管理は好きです。カレンダーとにらめっこして調整して、時間の使い方がうまくできたときの達成感はあります。50歳になって怪我もしてますが、ノックやバッティングピッチャーはこれからもできるように体力の維持もしたいですね。他の方々があまりやっていないような経験をたくさんさせてもらっているので、これからも指導者として野球に関わり続けたいです。

PROFILE

副島 孔太(Kota Soejima)
副島 孔太(Kota Soejima)
少年野球(シニアリーグ)時代から日本代表として活躍。その後、高校2、3年の夏の甲子園に連続出場。3年生に高木大成選手(元西武)、1年生に高橋由伸選手(現巨人軍監督)を擁して旋風を起こし、同年の甲子園3回戦でホームランを放つなど活躍。 法政大学へ進学後もスラッガーとして活躍し、96年の全日本大学選手権で東北福祉大学を破り学生日本一に。同年のドラフトにて野村克也監督率いるヤクルトに入団。01年開催の日本シリーズ第4戦で決勝ホームランを放ちチームの日本一に貢献。その後、02年オリックスに移籍し、04年に現役引退。現在はGXAスカイホークスの監督や少年野球「大田リトル」と「大田シニア」で総監督を務めている。

著者

梶 礼哉(Reiya Kaji)
梶 礼哉(Reiya Kaji)
北海道江別市出身のフォトグラファー / ビデオグラファー / ライター。小樽商科大学在学中の2017年、ドイツ野球ブンデスリーガ傘下(地域リーグ)バイロイト・ブレーブスでプレー。MAX100km/hの直球と70km/hのカーブを武器に投手としてそこそこの活躍を見せる。卒業後、紆余曲折を経て株式会社ワンライフに所属。FERGUSでは撮影とインタビュー・執筆を担当。

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