2026年1月5日。まだ街全体に正月の穏やかな余韻が残る中、千葉県柏市の「吉田記念テニス研修センター(TTC)」には、凍てつくような冷気とともに、鋭く張り詰めた打球音が響いていた。
ここTTCは、日本テニス界の至宝・国枝慎吾ら多くのトッププレイヤーを輩出し、国際大会の舞台ともなってきた、日本テニス界の聖地である。そしてこここそが、松井俊英(47歳)が10歳で初めてラケットを握り、現在に至るまで自らを磨き続ける不変の拠点だ。
日本のジュニアエリートが歩む「王道」――協会からの手厚いサポート、決められた遠征スケジュール、そして潤沢なスポンサーシップ。松井はそのすべてを一度も通ることなく、自らの血肉を削って道を作ってきた。
47歳。現役最年長プロテニスプレイヤーとしての記録を更新し続けるその姿は、一見、競技への執着に見えるかもしれない。だが、その本質はもっと冷静で、戦略的だ。彼は今もなお、自身のバイタリティを武器に、不透明な時代を生き抜くための「証明」を続けている。

「多数派への違和感」が僕を強くした
「僕がテニスを本格的に始めた10歳という年齢は、プロの世界では致命的な遅れです。周りは3歳や4歳からラケットを持っているのがいっぱいいますから。同年代で行ったら、僕が一番スタートが遅かった」
大阪に生まれ、3歳で柏へと移住してきた少年。母親が始めたテニスに連れられ、10歳の時にこのTTCの前身であるクラブで初めてラケットを握った。そこには、すでに完成された技術を持つ同年代がひしめいていた。
「当時は野球やサッカー、ドッジボールが全盛期で、テニスなんて女の子のスポーツか、あとはハイクラス……なんて言うんですか、ちょっと貴族のイメージ。白いウェアを着てやるような、自分とは接点がないものだと思っていました。 でも、いざやってみると衝撃を受けましたね。足の速さだけは誰にも負けない自信があったし、運動会でも常に一番。でも、テニスはそれだけじゃ勝てない。自分より足の遅い女の子や、ちょっと動きの鈍い相手に、頭を使われてスコーンとやられる。あの時の『なぜ身体能力で勝る自分が、こんなに簡単に負けるんだ』という理屈じゃない悔しさが、僕の原点です」

「ここじゃない」という焦燥
10歳というスタートの遅さは、普通に努力するだけでは埋まらない。その残酷な自覚を持ちながら過ごした日本での数年間、松井の中には周囲への違和感と焦燥が募っていった。
「10歳から16歳までの間、日本でテニスを続けながらも、ずっと『ここじゃない』という感覚がありました。練習メニューも、上下関係も、全部が型にはめられていく。周囲と同じことをしていても、10年の遅れは絶対に取り戻せない。あのまま日本にいたら、僕はテニスをやめていたか、どこにでもいる『そこそこ上手い選手』で終わっていたでしょうね。その焦りと、日本のシステムに対する反発が、僕を極端な選択へと突き動かしたんだと思います」
中学・高校時代、松井は日本の教育システムが強いる「均質化」と、当時の体育会系の理不尽さに激しい拒絶反応を示す。
「中学受験をして入った学校が、とにかく厳しかった。髪型もパッツンにしろとか、制服がどうとか。先生も当時は理不尽に殴ってくるような感じだった。僕はそれが大嫌いだったんです。 このまま高校、大学とエスカレーター式に上がって、1年生は坊主頭でボール拾い……みたいな世界。そんなのは超ナンセンスだと思っていました。将来的にも、ああいう環境でテニスを続けたくないという思いが強かったんです」
「自分で考えない人間」への恐怖
16歳。周囲の懸念をよそに、松井は日本の高校を中退。退路を断ち、カナダ・トロントへと飛び出した。
「今のようなネット社会じゃないから、情報なんて何もないんです。1人でバスを3回乗り継いで練習に通いました。夜のバスで、後ろに大柄な黒人が座っているのにビビりながら(苦笑)、必死に英語の勉強をして。 公立の高校に入ったんですけど、授業でやるのはいきなりシェイクスピアですよ。日本語でも分からないのに、それをパスしないと進級できない。通学のバスの中でも勉強して、練習もやって。でも、その過酷さが楽しかった。誰かに用意された道ではなく、自分の足で選んだ苦労だったからこそ、一分一秒を無駄にできないという自律心が芽生えたんです」

「セルフプロデュース」の原点――50通の手紙とビデオテープ
カナダでの修行を経て、松井は大学進学という岐路に立つ。そこで彼が取った行動は、自らの価値を定義し、売り込む「セルフマーケティング」そのものだった。
「高校卒業が見えてきたとき、当然のように進路を自分で作らなきゃいけなかった。僕は全米中の大学を片っ端から調べて、自分のプレーを撮ったビデオテープと手紙を50通以上送ったんです。フロリダ、カリフォルニア、ハワイ……トロントが寒かったので、とにかく暖かいところでテニスをしたかったという不純な動機もありましたけど(笑)」
手紙には「僕を獲ればチームにこれだけのメリットがある」と、自分の強みを最大限に言語化して綴った。その結果、ハワイのブリガムヤング大学(BYU)から「学費・食費・寮費すべて免除」という100%の奨学金付きオファーを勝ち取った。
「あの時、『自分で動き、自分を定義すれば、世界は応えてくれるんだ』という確信を得ました。スカウトを待つ受け身の姿勢ではなく、自分を『商品』としてどうプレゼンするか。その感覚は今のプロ活動のベースになっています」
祝勝会での「廃部通告」
大学を卒業し、22歳でプロ転向。だが現実は甘くなかった。実績のない彼にスポンサーはつかず、自らスーツを着てプロフィールを手に企業を回る日々が続いた。
「日本はインカレチャンピオンとかインターハイ優勝とか、そういう箔がある選手じゃないとスポンサーはつかないんです。ある企業の社長に『月6万円でどう?』と言われた時は正直ズコッときたけれど、僕はその6万円を『半年分前借りさせてください』と交渉しました。その36万円を握りしめて、トルコやインドネシアの遠征に行った。一ヶ月の遠征でケチケチやっても40万はかかるから、完全に赤字です。でも、世界で戦うためにはそれしかなかった。そこから実績を積んで、大手用具メーカーさんも金銭契約をしてくれるようになったんです」
ようやく国内トップクラスとして安定し始めた30代、彼は「社会の不条理」に直面する。
「全日本テニス選手権優勝、日本リーグでは3連覇して個人でもMVPを獲った。最高の気分でした。ところがその夜、祝勝会の席でテニス部部長から言われたのは『来年で廃部です』という言葉。理由は、リーマンショックによる業績悪化。 テニスの結果なんて、社会の潮流の前ではあまりに無力でした。優勝して、自分がどれだけ目立ったところで、会社の業績が悪ければ切られる。悔しかったけれど、それが現実。勝っても負けても、業績次第。だったらもう、開き直るしかないなと。そこからですね、試合で緊張しなくなったのは。場所や組織に自分の運命を預けちゃいけない。勝っても負けても、自分の人生に責任を持てるのは自分だけだ。そう悟ったんです」

結婚という決断、そしてプロとしての「誠実さ」
この「職を失う」最悪のタイミングの直前、松井は結婚を決断していた。
「マンションを買って、結婚して、という人生の節目にちょうど契約が切れた。普通なら引退してコーチの道を選ぶでしょう。実際、プライベートレッスンの方が金にはなる。 でも、妻は元選手として僕の挑戦を理解してくれた。どん底の時期に『1年だけフリーでやってみよう』と背中を押してくれた彼女の存在がなければ、今こうしてラケットを握ることもなかったでしょう」
実力があっても、社会の状況一つでハシゴを外される。その厳しさを知っているからこそ、彼は今、ウェアに付いている「ワッペン」の重みを誰よりも理解している。
「企業の方は、業績が悪ければ一番最初にスポーツを切るんです。 でも、そんな中でも応援してくれるスポンサーがいる。実績がない頃から飛び込みでお願いに行って、自分を信じてくれた方々には感謝しかありません。 プロテニスプレイヤーは個人事業主。ワッペンをつけて試合に出る以上、その企業の期待に応え、価値を証明し続ける。それが47歳の僕にできる唯一の誠実さだと思っています」

▲現在も複数社がスポンサーとして松井の活動を支える。WEBサイト制作・クリエイティブ面においては、東京・北参道のartLarge社が全面協力
パワーの衰えを「成熟」が上回る
47歳。肉体的なピークを過ぎていることは、彼自身が最もよく理解している。だが、そこにはアスリートとしての「知略の完成」があった。
「パワー、スピード、切れ、回復力。これらは20代に比べれば間違いなく落ちています。それは抗えない事実。 でも、今の僕は『技術』と『頭(メンタル)』が人生のピークにある。若い頃はただがむしゃらだったけれど、今は自分のメンタルの癖まで理解できている。 自分がどういう時に力み、どうすればパフォーマンスが上がるか。力んだときにどう戻すか。そういう『技術としてのメンタル』が確立されています」

さらに、松井は「道具の進化」を冷静に味方につけている。
「今はラケットも進化している。 肘に優しくて、なおかつ軽くてもボールが飛んでくれるスペックの道具があるんです。 そういった現代の道具の力をうまく借りながら、経験に基づいた配球で補う。それが今の僕の戦い方です」
「やり切った」と言えるその日まで
新春の柏。打球の合間に松井が見せる表情は、勝負師のそれと、探求者のそれが同居している。彼が見据える2026年は、単なる通過点ではない。
「まずは肘をしっかり治して、3月には復帰したい。 そこからが勝負です。2026年は、シングルスでATP1ポイントをもぎ取って、世界最年長ランキング保持者の記録を塗り替えたい。ダブルスでは全日本選手権V7、もう一度日本一の座を奪還しに行きます。 そして年末のワイルドカード選手権を勝ち抜いて、2027年の全豪オープン本戦のコートに立つ。これが僕の描いているシナリオです」
引き際について、彼は明確な答えを持っている。
「よく『いつまで続けるのか』と聞かれますが、答えは一つ。『やり切った感』がないまま、人のせいや環境のせいにして辞めるのだけは嫌なんです。 もし肘が治らなくてサーブが打てなくなったら、それは辞める時。でも、まだ打てる。 医者に何を言われようと、辞めるタイミングは他人に決めさせない。限界を他人に委ねない。それが、僕がプロテニスプレイヤーとして生きる上での、唯一にして絶対の条件ですから」
