サッカーはセンチメンタルなスポーツだ
あまりサッカーに詳しくない友人に、かつてこんなことを尋ねられたことがある。
「サッカーの引退試合って、なんで引退後2、3年経ってから開催するの?」
その時の私は明確な答えを持っていなかった。スポンサーや参加選手、スケジュールなどの調整に日数を要する、という答えを思いついたが、それはあくまでも事務的な理由であり、本質的な解ではないような気がしていた。
いま、私はその問いにこう答える。
「サッカーを愛する者は、どこかセンチメンタルな一面を持っているから」
サッカーは広大なピッチを90分間走り回り、体を激しくぶつけ合うスポーツだ。だから、何よりもまず走れないと話にならない。めちゃくちゃ上手い40歳よりも、そんなに上手くないけど走って戦える20歳のほうが、チームにとって有効な場合が多い。テンポが速い現代サッカーでは、その傾向がより顕著だ。
だからこそ、逆説的にいえば、現役選手の中で奮闘する老兵の引退試合を見るよりも、現役の面影がギリギリ残っているかどうかの瀬戸際にいる選手の引退試合を見た方が、より深い感傷に浸ることができる。
その選手を応援してきたファン、サポーターの目線になればなおのこと。かつての面影を脳内で同時再生しながら、以前のように走れなくなったいまの姿を親心で見守り、だけど昔と何一つ変わらないフォームでボールを蹴り、ピッチを舞うスターを目に焼き付ける。
「この選手を応援してきて本当に良かった」
そんな気分に浸るためには、バリバリに動けるよりも、多少動けないくらいがちょうどいい。
そこに往年のスター選手や現役時代の好敵手、所属チームの先輩後輩が加わり、時空と所属チームを超越した1日限りの豪華な布陣が形成されれば、引退試合という名のお祭りが完成する。
憲剛を引退試合へと突き動かしたモノの正体
川崎フロンターレのバンディエラ、中村憲剛。(以下、憲剛。いちファンとして愛着を込めてそう呼ばせていただく)
引退したのはコロナ禍真っ只中の2020年シーズン。声出し応援が規制され、サポーターたちは憲剛のチャントを歌いながら送り出すことができなかった。
そもそも彼自身には、引退試合を開催するつもりがなかったという。だが、全観客席での声出し応援が解禁された2023年、ホーム等々力(Uvanceとどろきスタジアム by Fujitsu)でサポーターから自身のチャントが捧げられ、憲剛の心は揺れ動き始める。
そして今年は川崎市の市制100周年。現役時代から川崎の街を愛し、川崎の街に愛され、地域に根差した活動を続けてきた憲剛にとって、これ以上のタイミングはない。そうして2024年12月14日、「チーム分けが不可能だ」と憲剛の頭を悩ませるほど豪華な選手の面々と、憲剛とフロンターレを愛する数多くのファン、サポーターが、引退から4年越しとなる「明治安田presents中村憲剛引退試合」のために等々力に集結した。
エキシビジョンマッチ:なでしこフレンズvsケンゴフレンズ
引退試合の前のエキシビジョンマッチは、「なでしこフレンズ」vs「ケンゴフレンズ」。なでしこフレンズは、2011FIFA女子W杯優勝メンバーを中心にしたチームだ。W杯優勝の立役者であり、バロンドーラーであり、憲剛の地元の先輩でもある澤穂希を筆頭に、宮間あや、鮫島彩、永里優季、阪口夢穂など、なでしこ黄金期のメンバーが集結した。
対するケンゴフレンズは、レジェンドのラモス瑠偉を中心に、中西哲夫や矢部浩之(ナインティナイン)、尾形貴弘(パンサー)、GAKU-MCなど、ジャンルレスでユニークな面々が揃った。ラモス瑠偉は憲剛少年の憧れの存在だったという。そう聞くと、少し猫背な姿勢や細身ながら戦うタフネス、縦に刺すスルーパス、キャプテンシーと、二人のプレーには重なるところが多いと気付かされる。
エキシビジョンマッチを含め今日の主審を務めるのは、これまたレジェンドの家本政明。13時、家本主審の笛を合図にキックオフ。試合開始直後、Gゾーンと呼ばれるバックスタンド1階に陣取る川崎サポーターが、日本代表応援チャントでなでしこフレンズを鼓舞する。
それに呼応するように、なでしこフレンズは見事なパスワークで試合を支配する。いまだに錆びついていないチーム練度の高さは、W杯優勝のエモーショナルな感情を呼び起こしてくれる。
後方からのフライパスに田中陽子がダイレクトで合わせ、なでしこフレンズが先制。試合途中、憲剛と親交の深い吉田沙保理(元女子レスリング日本代表)がなでしこフレンズとしてピッチに参上。球際で吉田が憲剛に霊長類最強タックルを決め、VARが発動。ひょっとするとこのシーンが、笑いのボルテージとしてはこの日最高潮だったかもしれない。
一方のケンゴフレンズは、憲剛の長男である中村龍剛がピッチに登場。選手として初めて等々力のピッチに立ったという龍剛は、若さ溢れるプレーで会場を湧かす。23分、憲剛から龍剛にパスが繋がり、龍剛のスルーパスから小野大輔(元フットサル日本代表)がゴール。
試合はそのまま1-1で終了し、MKKP(もっとも憲剛を輝かせた賞)には中村龍剛が選ばれた。
引退試合前半:JAPANフレンズ(ブルー)vs JAPANフレンズ(ホワイト)
この日のメインイベントは14時キックオフ。引退試合の前半は、日本代表で憲剛が共演した選手たちがJAPANフレンズとしてブルーとホワイトに分かれてプレーする一戦だ。キャプテンマークを巻いた中村憲剛と遠藤保仁を先頭に、歴戦のスターたちがピッチに入場する。GKは川口能活と楢崎正剛。サイドでは長友佑都と内田篤人の戦い。最終ラインには中澤祐二に坪井大輔。中盤には小野伸二に今野泰幸。前線には高原直泰、大久保嘉人、玉田圭司と、憲剛でなければ集まらないであろう、豪華すぎる面々による共演だ。
試合開始。ゲームスピードは速くないものの、足元のクオリティはみんな抜群だ。憲剛のスルーパスに反応した長友のクロスから、高原が頭で合わせてブルーが先制。対するホワイトはコーナーキックから我那覇和樹が同点ゴール。その直後、憲剛“らしい”のループパスに石川直宏がダイレクトで合わせて2-1。
小野の美しいトラップに高原のヘディング、加地亮のクロス、中澤のラインコントロール。そして憲剛のスルーパス。一流選手の技術は一生錆びつかない、ということを示すプレーの連続は、少年少女にとって意義深い教えになっただろう。
試合途中から憲剛がホワイトチームのユニフォームに着替え、チーム変更。そのままPKキッカーを務め、この日初めてゴールを決める。Gゾーン前に行き、登里享平が落とし込んだサンキューポーズ(パンサー尾形)のゴールパフォーマンスを披露した。
途中出場した大久保嘉人がファーストタッチでゴールを決めるなど、贅沢な試合展開は続き、最終的には憲剛が4得点を決め、前半45分が終了した。
引退試合後半:KAWASAKIフレンズ(ブルー)vs KAWASAKIフレンズ(ホワイト)
引退試合の後半には、フロンターレの先輩後輩が集結した。鄭大世にレアンドロ・ダミアン、稲本潤一、谷口博之、山瀬功治、ジュニーニョ、チョン・ソンリョン、小林悠、脇坂泰斗、登里享平、車屋紳太郎、家長昭博、大島僚太、そして鬼木達と、フロンターレの歴史を彩る面々が2チームに分かれて試合をする。サポーターからすれば、すべての選手のチャントを歌えるという不思議かつ最高な状況だろう。
試合開始10分と18分、家本主審が試合を止める。かつて在籍し、不慮の飛行機事故で2016年に亡くなったアルトゥール・マイアと、今年1月に亡くなった横山知伸がモニターに映し出され、スタジアムから哀悼の拍手が送られた。
25分で試合を一度区切り、OB選手と現役選手が交代し、ここからはガチモードの引退試合に突入。ゲームスピードが上がるとチャントの声も一層大きくなり、スタジアムの雰囲気が一変する。
試合終盤、ゴール前で長谷川竜也がFKを獲得。なぜか両チームの全員が壁に入ると、憲剛もそこに加わり記念撮影。この日ことごとくFKを外していた憲剛は最後のFKをゴール左隅に沈め、試合終了の笛が吹かれた。
アスリート中村憲剛、ここに完結!
試合終了後、憲剛がサポーターに向けて挨拶した。
「皆さん本日はありがとうございました。スポンサーの皆様、本当にありがとうございました。そして今日来てくれたケンゴフレンズ、なでしこフレンズ、JAPANフレンズ、KAWASAKIフレンズの皆さん、本当にありがとうございました。そして、等々力を満員にしてくれたファン、サポーターの皆さん、本当にありがとうございました。DAZNを視聴してくださった皆さんも、本当にありがとうございました。本当に本当に、幸せ者だなと思いました。
自分の引退試合にどれだけの方が来てくれるか正直不安でしたけども、蓋を開けてみれば、メディアの皆さんを含めて、これだけ多くの方が来てくれて、本当に幸せ者です。試合をやりながら、ピッチの上で『懐かしいな』と思っていましたし、すごく自分も楽しんでやることができましたし、皆さんも少しでも当時のことを思い出していただけたら幸いです。
僕は4年前に引退して、引退セレモニーもしていただいたんですけど、当時コロナ禍で、なかなかチャントが歌えない中で引退しました。でも今日、中村憲剛のチャントを歌ってもらって、その中でプレーして、送り出してもらえて本当に感無量です。
本当に僕自身も楽しめた1日でしたし、みんなの笑顔を見れて幸せな1日でした。本当に皆さんありがとうございました。引き続き中村憲剛をよろしくお願いします。お疲れ様でした!」
挨拶後、すしざんまいのユニフォーム姿に着替えた家長が寿司桶でマグロを届け、谷口彰悟があがりのお茶を持ってくるという、フロンターレらしいパフォーマンスを披露。すしざんまい社長が同じ中央大学出身という繋がりから生まれたコラボレーションだそうだ。
その後、憲剛を先頭に全選手で場内を一周。ファン、サポーターは立ち上がって手を振り、憲剛の名前を呼ぶ。Gゾーンに到着した憲剛は足を止め、サポーターと固い握手を交わし、水色のメガフォンを手に取った。
「本当に18年間お世話になりました。これでアスリート中村憲剛は完結ということで、本当に感謝しかありません。ありがとうございました。最後に、チャント歌ってもらっていいですか」
メガフォン越しに自身のチャントを歌い出した憲剛に、サポーターが呼応する。この日一番大きなチャントがスタジアムにこだまする。
幼い子供を連れた母親。杖で歩くご老人。フロンターレのニット帽をお揃いで被ったカップル。同じユニフォームを着たお父さんと息子。SHISHAMOの『明日も』が鳴り響く中、満足そうな顔でスタジアムを後にするファン、サポーターたち。なんて素敵な光景なのだろうか。
愛するチームがJ2に降格する。そのチームに一人の大卒選手が入団する。J1に昇格してからも攻撃的なスタイルを貫き、メキメキと力を付ける。優勝をあと一歩で逃し続け、シルバーコレクターという不名誉な呼び名を付けられる。サッカーの本質を追求する名伯楽がチームを変革し、日本代表にまで成長したキャプテンを中心に、見たことのないスペクタクルなサッカーで魅了する。クラブOBが監督になり、そのサッカーはついに完成され、最終節に得失点差で悲願のJ1初優勝を成し遂げる。その後の4年間で3度の優勝を果たし、多くの所属選手が日本代表に選出され、海外に旅立ち、史上最強とも言われる代表チームとして再び共闘する。そして、そんなチームにキャリアのすべてを捧げたバンディエラが、新旧男女東西プロアマ多くのスターを引き連れ、愛するホームで引退試合を開催する。
こんなドラマは、観たいと思って観られるものじゃない。18年間の苦楽を、選手を、監督スタッフを、チームを、サポーターを、スタジアムを、街を、そのすべてを祝福するための祭り。
この日この場所に集まった人々は、一生に一度のこの祭りを噛み締めた。文字にすればするほど無粋になってしまう感情を、それぞれの胸に刻み込んだ。
そうに違いない。
いつまでも鳴り止まないサポーターのチャントが、そう語りかけている。