引退試合は“サッカーに感謝するお祭り”
サッカーとは何か。サッカーを愛する者であれば、この問いについて一度は考えたことがあるのではないだろうか。
元サッカー日本代表MF橋本英郎は著書『1%の才能』の中で、「サッカーは助け合えるスポーツ」と表現した。現役時代、そのプレースタイルから“知性のダイナモ”や“考えるサッカーの申し子”と呼ばれた橋本ならではの回答だ。
1998年にガンバ大阪でキャリアをスタートさせ、そこからヴィッセル神戸、セレッソ大阪、AC長野パルセイロ、東京ヴェルディ、FC今治、おこしやす京都ACと様々なチームを渡り歩き、2023年、25年に及んだ現役生活に幕を閉じた。最も長く在籍したガンバ大阪では、不動のボランチとしてチーム初のJ1優勝やACL制覇に貢献。また、日本代表としても15試合に出場している。
現在は鎌倉インターナショナルFCアドバイザーや履正社高等学校コーチ、大阪大谷大学コーチ、サッカースクールやジュニアユースチームの運営、さらには解説業にメディア出演、本の執筆と、その活躍は多岐に渡る。それら全ての活動に対し、橋本はある一貫した想いを持って取り組んでいる。それは“サッカーへの感謝”だ。
「サポーターのみなさまからの熱い声援、惜しみない拍手。共に戦ったチームメイトやスタッフたちと育んだ、一生の絆。たくさんの迷惑をかけた家族への感謝。人生をこんなにも豊かにしてくれたのは、この世界に、サッカーがあったから。引退試合。サッカーがあったから、この日がある。だから、橋本英郎の引退試合は、みんなと一緒に、思いきりサッカーに感謝をするお祭りにしたい」(ガンバ大阪公式HPから抜粋)
橋本のそんな想いから実現したのが、「ありがとう、サッカー。『橋本英郎引退試合』ガンバ大阪’05vs日本代表フレンズ」である。ガンバサポーターである筆者はひょんなきっかけから、この引退試合を終えた橋本英郎本人に取材させてもらう機会を得た。
2023年12月16日、ガンバ大阪の本拠地であるパナソニックスタジアム吹田に、1万人を超える観客が足を運んだ。この引退試合への率直な感想を橋本に訊いてみると、こんな言葉が返ってきた。
「まさに『夢心地の時間』でした。まずは病気や怪我なくこの日を迎えられたこと、呼んだ選手たちが来てくれたこと、実際に引退試合が始まって、無事に終えられたことが感慨深かったです。セレモニーのスピーチの時、話すのを止めると感情が湧き上がってきそうだったので、止まらずに早口で喋ることを意識しました(笑)。でも1番泣きそうになったのは、最初にガンバのスタッフが集まって円陣を組んだ時ですね。『わざわざ僕のために集まってくれた』と考えると感情が溢れてしまって、言葉が出てこなくなりました」
この日、日本サッカー界では前例がないほど豪華な面々がピッチに集結した。“ガンバ大阪’05”のチームには宮本恒靖や遠藤保仁、山口智、家長昭博、アラウージョ、フェルナンジーニョ、大黒将志、シジクレイ、二川孝広など、2005年のガンバ大阪のレジェンド選手がずらり。一方の“日本代表フレンズ”には本田圭佑や内田篤人、中澤佑二、中村憲剛、乾貴士、稲本潤一、今野泰幸など、一時代を築いた元日本代表戦士が顔を揃えた。
「2005年以降は一度も会えていなかったアラウージョと久々に会えたのも嬉しかったですね。フェルナンジーニョとシジクレイの二人がアラウージョと繋がっていたので、通訳を介してこの引退試合に誘いました。あとはガンバユースの後輩の本田圭佑にも、ロシアワールドカップの時ぶりに会えてよかったです。『こういう面々が一堂に会して試合することは無いやろうな』っていう選手たちが集まってくれたからこそ、1万人を超えるお客さんが足を運んでくれたと感じていますし、本当に感謝しています」
あくまでも私見だが、ガンバ大阪がこれほどまでに大規模な引退試合を開催するのは異例のことである。橋本からガンバ大阪に打診してから開催が決まり、何度も打ち合わせを重ねていったという。開催に必要なスポンサー集めは難しくなかったのか、失礼を承知で訊いてみた。
「スポンサーというよりはパートナーとして、引退試合という僕の夢を一緒に楽しんでくれるような方々が集まってくれました。費用対効果というか、『どれだけ経済効果があるのか』というような話から、今回の引退試合に協賛してくれた訳ではなく、『それだけ面白いことしているなら、よっしゃ、一肌脱いだろ』という方々が今回パートナーになってくださったと感じていますし、めちゃくちゃ感謝していますね」
ガンバ大阪でキャリアをスタートした橋本だが、引退したのはおこしやす京都AC。今回の引退試合をガンバ大阪で開催した理由を訊くと、次のような答えが返ってきた。
「中学1年生から20年間ガンバ大阪にいたので、“自分を育ててくれたクラブ”という意味での感謝があり、プロサッカー選手としての始まりと終わりはどちらもガンバで経験したいと思っていました。それと同時に、“みんなでサッカーの楽しさを感じてもらう日”にもしたかったので、ガンバ以外のサポーターの方にも観戦を呼びかけました。これまで所属したクラブ全チームにご縁があるので、少しでも興味を持っていただけるのであれば来ていただきたいなと」
ガンバ大阪が黄金期を迎えるきっかけとなった試合
この引退試合の開催が実現したのは、これまでの橋本のキャリアがあったからこそ。25年間に及んだ自身のキャリアについて、橋本は次のように振り返る。
「よくここまで出来たなと。こうなることは全く想像していませんでした。僕は最初からプロ契約だったわけではなく、まずは練習生からのスタートでした。当時は半年契約だったので、まずはプロ契約を結んでもらうというのが第一の目標。その次は1試合出るのが目標、その次はクビにならないことが目標という感じで、先が見える立場ではなかったので、よくここまで出来たなという想いです」
キャリアの中で最も印象に残っている試合を訊いてみると、2005年にガンバ大阪がJリーグ初制覇を成し遂げた試合を挙げた。
「アウェイの等々力陸上競技場での川崎フロンターレとの対戦で、シーズン最終節。僕らは2位で、1位がセレッソ大阪。勝ち点差から、『他力の中で勝つ(優勝する)』という、最低条件をクリアしながら試合を進める必要がありました。試合中はスタンドやベンチが湧き立つ感覚がありましたね。試合終盤は防戦一方でしたが、なんとか乗り切り、最後にフリーキックからアラウージョが点を取って4-2になって、勝利を決定的にしました。自力優勝がない状況で僕らは勝ち、1位のセレッソ大阪は後半終了間際に相手のコンちゃん(今野泰幸)に点を取られて同点になって、僕たちが優勝を決めました。ガンバ大阪にとって初めてのタイトルだったので、凄く感慨深いものがありましたね」
翌々年の2007年にはナビスコカップ(現ルヴァンカップ)を勝ち取り、2008年と2009年は天皇杯を連覇。また、2008年にはACLで優勝し、AFC年間最優秀クラブ賞にも輝いている。ガンバ大阪の黄金期の一つであることは間違いないが、橋本曰く、そのターニングポイントになったのがフロンターレとのこの一戦だという。
「『この試合に勝てば優勝できるかも』という、タイトルを取るチャンスはそれまでに何度もありましたが、ことごとく負けていて。ジュビロ磐田が優勝したり、鹿島アントラーズが優勝したり、横浜F・マリノスが優勝したり。それをようやく乗り越えられたと感じました。その年のナビスコカップ決勝でも、イビチャ・オシムさん率いるジェフユナイテッド市原・千葉にPKで負けているんですよね。『ここでもタイトル取れへんのか』という想いもあった中で、最終節でJ1初優勝を決められたので、それが印象に残っている試合です」
そんな黄金期のガンバ大阪を率いていたのは、ロシアW杯日本代表を率いた西野朗。西野監督とのエピソードを訊いてみると、「前を向け」と口酸っぱく指導されていたと回想する。
「ボランチとして試合に出始めた時は、より守備的なタイプだったんです。でも、『横や後ろでは駄目。前を向いて縦パスを入れられる選手にならないといけないよ』と西野さんにずっと言われていて。そのおかげでボランチでも攻撃的なプレーが出来るようになりました。ヤット(遠藤保仁)がパートナーだったので、基本的には彼がボールを捌くんですけど、彼が抑えられた時でも僕が縦パスを入れたりとか。西野さんに求められたことに応えることで、試合中にできる役割が増え、選手としてもう1段階成長できて、攻撃的なプレーもできる守備的ミッドフィルダーになれたんじゃないかなと思います」
当時のガンバ大阪は、パスワークで相手守備陣を崩し、3点取られても4点5点取ればいいという、攻撃的かつ魅力的なサッカーを信条としていた。その攻撃サッカーを支えたのが、橋本英郎、遠藤保仁、二川孝広、明神智和の4人で構成された中盤である。当時4人の中でどのような話し合いやコミュニケーションがあったのだろうか。
「話し合いは特になかったんです。だからこそ明さん(明神智和)が凄いと思うんですよね。ヤットとフタ(二川孝広)とは前からずっと一緒にガンバでプレーしていて、明さんは後からそこに入ってきた形なんですが、すぐにチームにフィットしました。明さんが守備専門のようなタイプだったこともあり、僕の役割は守備専門から中盤のバランサー型になっていきました。フタはスルーパスでアシストしたり得点する攻撃特化型で、ヤットも同じく攻撃的で、僕と明さんが守備的なタスクをやりつつ、フタとヤットが低い位置で捌く時には、僕が高い位置に出ていくという感じ。そういうポジションチェンジを、お互いがお互いを見て合わせるイメージです。正直なところ、3人とそんなに話したわけではないんで、実際彼らがどう感じていたのかは分からないですけどね。ハヤト(佐々木勇人)がサイドに入って、ヤットがトップ下に入ったり、僕がサイドバックに入ったりと、ポジションが入れ替わることもありましたが、それでも連携面の良さは変わりませんでした」
自分のプレースタイルで日本一の監督を目指す
今後のキャリアの目標について訊いてみると、昔からのガンバサポーターとして胸が高鳴る答えが返ってきた。
「“日本一の監督”という夢に向かって、それを実現するために必要なキャリアを、これから歩んでいこうと思っています」
“日本一の監督”といっても定義は様々だ。Jリーグを制覇することなのか、日本代表の監督に就任することなのか、はたまた、海外で日本人監督として活躍することなのか、橋本に質問をぶつけてみた。
「クラブのフィロソフィーや、求めるものに対応できる監督になりたいなと。カウンターサッカーをしてほしいと言われたらカウンターサッカーをするし、攻撃的なサッカーをしてほしいと言われたら攻撃的なサッカーをする。地域の性質を反映したり、アカデミーから一本化したりしているクラブでも対応したい。 “なんとかしてくれ”と結果だけを求められたら、それもする。そういうふうに、クラブが求めたことを“カメレオンのように対応できるような監督”になりたいなと思います。どのカテゴリーでもそれが実現できるようになれば、それが日本一の監督だと僕は思っています」
選手として積み重ねてきた経験と自信を踏まえ、そこに至るまでの過程を橋本はしっかりと見据えている。
「『僕はこれができます』というような専門家ではなくて、“全てが専門的に出来る人間”になりたいんです。そういう監督になるためには、引き出しが多くないといけないですし、いろんな考えを持っておかないと対応できないですよね。だからこそ簡単ではないと思います。ただ、キャリアの中で僕はCBとGK以外はほとんどのポジションをやってきていて。この年齢までプレーできたのは、チームに求められていることをどのポジションでも体現できたからこそだと考えています。それが自分のプレースタイルであり、指導者としてのスタイルなのかもしれないなと。それを実現すれば、日本一の監督と思ってもらえるんじゃないかなと」
「サッカーは助け合えるスポーツ」という自身の言葉を体現したプレースタイルで、ガンバに黄金期をもたらし、25年間も第一線で活躍し続けた橋本英郎。これからは監督として、サッカーの本質をとことん突き詰めていくのだろう。監督としてガンバ大阪に戻ってきてもらえるか、最後に訊いてみた。
「戻ります。『戻ってくれますか?』と言われるように力をつけたい。そして戻った時には、全力を尽くします」
その返答にも橋本らしさを垣間見ると同時に、ガンバ大阪のサポーターとして、レジェンドの帰還に妄想が膨らんだ。
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