“アメリカの大学経由MLS行き”のルートを開拓した日本人選手
海浜幕張駅から歩いて15分の場所に、八咫烏のエンブレムを外壁に冠した近代的な建物と、管理が行き届いた天然芝のグラウンドがある。冬にしては暖かすぎる陽光が降り注ぐ1月のある日、高円宮記念JFA夢フィールドと名付けられたそのピッチで、一人黙々と汗を流している選手がいた。
アメリカの大学サッカーからMLSに辿り着くというルートを切り拓いたパイオニア、遠藤翼だ。
JFAアカデミー福島1期生の彼は、高校卒業後の2012年にワシントンD.C.のメリーランド大学に入学。アメリカの大学サッカーで頭角を現し、2016年にトロントFCからMLSスーパードラフト1巡目で指名を受けて入団した。MLSドラフト1巡目で日本人選手が指名されたのは、後にも先にも遠藤しかいない。
トロントFCに約6年間在籍した後、2022年にオーストラリアのメルボルン・シティFCに移籍。その半年後、現在吉田麻也が在籍するロサンゼルスギャラクシーのリザーブチームであるロサンゼルスギャラクシーⅡに移籍した。アメリカの地で再び輝きを放つべく、虎視眈々とチャンスを伺っていたその矢先、遠藤の体に異変が起きはじめた。
最初の違和感
「2022年8月の頭にLA(ロサンゼルス)に行って、3週間くらいファーストチームの練習に参加していて。ビザを取るために一度バンクーバーに行ったんですけど、その帰りの飛行機の中で、急に風邪のような症状が出てきて。『なんかちょっとおかしいな』とは感じたんですけど、『まあ普通の風邪かな』とその時は思っていて」
ロサンゼルスに戻った後も、体調が回復する兆しは一向に見えなかった。ただ、新しいチームに移籍した直後で、ファーストチームに食い込めるかどうかという状況に身を置いていた遠藤は、チームの活動に参加し続けた。
「本当に体調が良くなくて、チームに相談して、コロナやインフルエンザの検査をしたんですけど、ぜんぶ陰性。でも個人的には『やっぱりちょっとおかしいな』と。1番ひどかったのは夜の寝汗。尋常じゃない汗のかき方で、夜中1時間おきに着替えないといけないくらい。そういう症状が2週間くらい続いたんですけど、新しいチームだったし、練習は休みたくないんで、『まあ熱中症ぐらいだろうな』と思って、自分のことをプッシュして、毎日練習して試合して」
そのような状態が1ヶ月近く続いたが、ついに限界が訪れる。
「その日はファーストチームの練習に参加していたんですけど、かなり調子が悪くて、ウォーミングアップから走れない状態がずっと続いて。なんだろうな…体が爆発するような、味わったことのない感覚だったんです。『これやばいな』と思ったんですけど、そのまま練習を続けて。でも、やっぱり走れない。ポゼッションの練習を始めた時に、ルールも理解できないまま、なにも考えられず上の空という感じになっちゃって、『あ、これもう倒れちゃうな』と」
不幸中の幸いなのか、トロントFC在籍時に苦楽を共にしたメディカルスタッフやコーチ陣が、偶然にもロサンゼルス・ギャラクシーに所属していた。旧知の仲ということもあり、遠藤は体の異常をやっと打ち明けることができたという。
「トレーナーに『倒れちゃうから続けられない』と伝えたら、『血液検査しよう』となって。血液検査をしたら、チームドクターからすぐ電話がかかってきて、『白血球が異常に少ない。これはアラーミングだ。ER(救急外来)に行け』と言われて」
救急外来に行って診断を受けた結果、そのまま入院することになったが、はっきりとした病名はそこでは判明しなかった。「急性未分化白血病」という、白血病の中でも珍しい症状だと分かるのは、日本に帰国してからのことになる。
「入院して骨髄検査をした時に、骨髄の中にもがん細胞がけっこうあって、骨髄検査の針が入らなかったんです。そこでは『詳細はまだ分からないけど、ガンの可能性が高い』という診断で。治療していくには家族のサポートも大事だと思ったので、『日本に戻ってしっかり治療したい』とチームに話したら、その意思を尊重してくれて。2022年の10月頭に日本に戻ったんですけど、日本の病院でも最初は診断がつかず…でも貧血状態みたいな感じで、体調はやっぱりおかしかった。12月に入った頃くらいに『急性白血病』と診断されて、そこからすぐに治療という形になりました」
「本当に何もできない」ほどハードな闘病生活
白血病は大きく分けて、骨髄性白血病と急性リンパ性白血病の2つに分類される。骨髄性白血病は、血球のうちの白血球・血小板・赤血球という骨髄系細胞のいずれかの分化細胞が、異常な増殖をする白血病。一方のリンパ性白血病は、白血球の中の幹細胞がリンパ球へ分化する際に異常が起こる白血病だ。
遠藤が発症した急性未分化白血病は、その骨髄系細胞とリンパ系細胞のいずれにも成っていない未熟な細胞の時点でがん細胞になってしまう、白血病の中でも極めて稀な症状。それゆえ、治療法においても従来の白血病と比べて難しさがあったという。
「たとえばリンパ系白血病であれば、リンパ系に効く抗がん剤を使えばいいわけですけど、僕の場合はどっちか分からないので、どの抗がん剤を使えばいいのか分からず…賭けじゃないですけど、『こっちを試してダメだったら、次はこっち』みたいな感じで進めていかないといけなかった」
そうして始まった抗がん剤治療。記憶を紡ぐように間を置きながら、入院生活について振り返っていく。
「12月中旬から抗がん剤治療を始めて、1組目、2組目、3組目までやって、その時は髪が抜けるくらいで、あんまり副作用もなくて大丈夫でした。ただ、骨髄移植を2023年の3月に予定していたので、その直前に“前処置”という形ですごい量の抗がん剤を体に入れて、放射能を体に当てるんですけど、これがかなりタフな治療で…ずっとベッドに横になって、気持ちが悪いから携帯も触れないし、本当に何もできないんです。気持ち悪さがなくなるのを待つしかない日々というか。辛かったですね」
骨髄とは、骨の中心部にあり、血液細胞(白血球、赤血球、血小板)をつくる組織のこと。その骨髄には造血幹細胞と呼ばれる、すべての血液細胞に成長でき、かつ自分自身も複製することができる “血液の種”のような細胞が存在している。
骨髄移植では、ドナーから提供されたこの造血幹細胞を移植する。しかしながら、必ずしもそれが患者本人の体にマッチするとは限らない。移植したドナーの造血幹細胞をしっかりとマッチさせるために、遠藤も苦しんだ前処置が必要になるわけだ。
「骨髄移植では、首からカテーテルを入れて、ドナーさんにもらった骨髄を移植しました。マッチ的には完璧に生着して大丈夫だったんですけど、骨髄移植してから7週間ぐらいはご飯が食べられなくて、体重もすごく落ちましたね。無菌室だったので、外との接触もダメだし、1人部屋で毎日ベッドの上で過ごして。白血球の数値がどれだけ上がっているかを計るために2日に1回血液検査をして、その数値が上がるのを待つ生活というか。コロナのステイホームみたいな感じで、外とのコンタクトが取れないのもきつかったです」
復帰を目指し、トレーニングを再開させたものの…
それらの治療と入院生活は実を結び、遠藤は5月中旬に無事退院することができた。それから間も無くして、JFA夢フィールドでトレーニングを開始。遠藤に訊いたところ、本来はA代表の選出経験がある選手だけが、この施設を自由に使っていいのだという。ただ、JFAアカデミー福島の1期生ということもあり、以前から遠藤を気にかけていたJFA会長(執筆当時)の田嶋幸三氏の心遣いにより、特別に許可が下りたそうだ。
「退院した後は体調も良くて、毎日ここでトレーニングしていて。走っている時に『ちょっと心臓がおかしいな』っていう感覚はあったんですけど、『そんなに心配するほどでもないのかな』と。ただ、10月の血液検査で、最初に白血病だと分かった時よりも腫瘍マーカーが上がっていて。『おそらく再発しています』と医者から言われて」
再び骨髄検査をしてみると、白血病細胞が30%ほど戻っていた。骨髄移植は成功したものの、以前のがん細胞がおそらく残っており、それがぶり返してしまった、というのが医者の見解だった。遠藤は再び入院し、抗がん剤治療を進めることになった。
「白血病の発見は早ければ早いほどよくて、この再発は早期発見だったので、その点はよかったです。いまも治療中なんですけど、最初のやり方とは全然違って、今回はカテーテルではなく、皮下注射でお腹から抗がん剤を入れていく方法。入院してから1週間連続で毎日やったんですけど、2日目からすぐに結果が出て、腫瘍が壊れました。不幸中の幸いじゃないですけど、医者からも『すぐに結果に現れたのはよかった』と言ってもらえて。
それにプラスαで、ドナーリンパ球注入という治療もやっています。再発した時のために、ドナーさんからもらった骨髄の中のリンパ球を冷凍保存しておいて、それを注入することで、がん細胞を消したり抑制したりする効果があるんですけど、いまはそれの3クール目ですね」
背中を押してくれた同級生Jリーガーの存在
闘病生活に励む遠藤を支えた戦友がいる。ヴィッセル神戸に所属する井出遥也だ。小学4年生の頃、柏レイソルのセレクションの最終試験に2人で残ったのが、出会いのきっかけだという。2人ともセレクションには落ちてしまったが、親同士も含めて親睦を深め、その関係性は現在も続いている。
「遥也とは、僕がアメリカに行った後も日本に帰ってくると毎回会う仲です。白血病になって、日本で入院する一日前にも家に来て、『俺も坊主にする』って言ってくれて。
彼としては、病気について聞き辛い部分もあったらしいんですけど、『なっちゃったことはしょうがないし、この病気と生涯一緒に生きていかないといけないから、聞き辛いことでも聞いてほしい』と伝えて。その後は『最近体調どう?』とか定期的に聞いてくれて、それもありがたかったですね。
彼は去年ヴィッセル神戸に移籍して、結果が出ずにもどかしい時期もあったと思うんですけど、『得点したら翼に捧げたい』と言ってくれて。リーグ後半戦で調子が上がってきて、国立競技場で得点した時に、僕がずっと付けていた背番号31番のポーズを手でやってくれました。親友の彼が坊主にして一緒に戦ってくれて、ちゃんと結果を出して、そうやって行動してくれて…その試合を中継で観ていて感動しましたし、本当に心の底から嬉しかった。だから彼にはもう頭が上がらないです(笑)」
またピッチに立ってプレーする
取材前、Apple Watchでインターバルを測りながら、何本もダッシュに取り組んでいた遠藤。事情を知らない人であれば、現在進行形で抗がん剤治療をしている人のトレーニングだとは到底思えないほどハードなものだった。
「最初に入院して抗がん剤と骨髄移植をした時に、体重が20kgぐらい落ちちゃったんです。退院後にトレーニングをして、いまの状態まで持ってきたんですけど、そこから再発して…再発したことももちろん嫌でしたけど、『また体重が落ちて、また1からトレーニングしないといけない』っていうのが1番嫌でした。だから再発と言われた時に『やれることはやろう』と決めて。幸いなことに今回は副作用がなく、入院していた期間も体調はよかったので、部屋で筋トレをしていました。退院1週間後には、パーソナルトレーナーの石井健太郎さんとプログラムを立てて、以前のようなブランクもなく再発前のトレーニングを再開することができました」
誰にも会えない無菌室の中で筋トレに励み、退院後は抗がん剤を投与しながら毎日トレーニングに精を出す。彼を突き動かす情熱の源泉は何なのだろうか。
「それは2つあって、1つ目は、こういう難病になっても、またピッチに立ってプレーをすること。やっぱりプロの世界って厳しいじゃないですか。厳しいからこそ、またピッチに辿り着いて、パフォーマンスを見せて、結果を出す。そうすることで、アメリカや日本にいる白血病の方に勇気を与えられたり、メッセージを送れればなと。
2つ目は、トロントもメルボルンもLAも、サポーターの方たちが励ましの言葉やエールを送ってくれて、本当に感謝の気持ちしかなくて。そういうのを見ていると、やっぱり諦めたくないって思うんです。再発した時ももちろん辛かったですけど、そういう言葉を力にして、『やれるぞ』って自分で鼓舞して。最終的には、この治療を終えてアメリカとカナダに戻りたいんです。僕のキャリアはそこから始まっているので、そのピッチにもう一度立ちたい。トロントやLAの強化部も『どういう状況だ?』と定期的に連絡してくれていて、そうやって気にかけてくれるのも、本当にありがたいです」
今回のインタビューを含め、治療の過程もすべて外に発信していくことにも、彼なりのメッセージが秘められているという。
「病気になって思うことは、“やっぱり人それぞれ経験が違う”ということ。たとえば抗がん剤でも骨髄移植でも、僕はもしかしたら副作用が少ない方かもしれないけど、他の人は違うかもしれない。僕も抗がん剤を初めてやる前は全然わからなくて、『どんな感じなんだろう?』と思っていました。父ががんになったことがあるので、その経験を聞いたんですけど、僕の治療でそれとまったく同じ状態になるわけではない。病気になった人にとって、そこが非常に難しい部分なのかなと。
でも、こういう経験談を知ることによって、少しでも気持ちが楽になったり、救われることもやっぱりある。だからこそ、自分の経験談を伝えることは大事だと思うんです。僕はSNSを通して闘病生活をぜんぶ発信していて、具体的にどういう状態だったか、ということもすべて伝えてきました。同じ病気の方たちに、そういう部分でもいい影響やメッセージを与えていけたらな、と思っています。」
本当にユニークな人生を歩んでいる
リオネル・メッシやセルヒオ・ブスケツなどビッグネームが続々と参戦し、さらには2026年にW杯開催を控えるなど、アメリカのサッカー熱は上昇の一途を辿っている。そのアメリカの地で、外国人選手としてサバイブしていた最中、フットボーラーとして脂が乗る29歳というタイミングで、遠藤は白血病を発症した。その心中は察するに余りある。闘病生活を通して、どのような人生観の変化があったのだろうか。
「良くも悪くも、他の人がどう思っているかをあんまり気にしなくなりました。正直、大げさに言ったら、この病気で死ぬ可能性もやっぱりあって、いまもまだリスクがあるわけで…発症したのが29歳の時ですけど、自分ががんになるなんて誰も思わないじゃないですか。まさか自分がなるとは本当に思わなかった。だから白血病になった時、『後悔しないように生きよう』ってまず思いました。
過去の栄光にしがみついて生きたくもない。もちろんいまも治療中なんで、将来がどう転がっていくのかもわからないし、5年後や10年後について、いまは考えられない。いま自分が思うのは、もしかしたら明日死ぬかもしれない人生の中で、いまどうやって生きていくか、ということ。昔は感謝できなかった些細なことに対しても、いまは感謝できていたり、“人はやっぱり1人で生きていけない”という人との繋がりや、人の心の温かさも、今回病気になって本当に感じました」
この記事を読む人にどんなことを伝えたいか、最後に訊いてみた。
「こういう病気になって、色々と気づかされることはありますけど、逆境でも『こういう風になりたい』っていう自分の意思を固く持って、くじけないでやり続けて、壁を乗り越えていくこと、逆境に打ち勝つことが、やっぱり大事なんじゃないかと僕は思っていて。
いま30歳ですけど、本当にユニークな人生を歩んでいると自分自身で思うんです。いろんな逆境が毎年のようにある人生の中で、自分らしい方法でその逆境を乗り越えられてきている。もちろん、この病気は絶対にこれまでで1番の逆境です。最初にがんって聞いた時は『もう死んじゃうんじゃないか』って思ったし、泣きました。でも、それでも諦めないし、『またピッチに立ちたい』って思ってトレーニングして、リハビリして、という毎日を続けています。
いろんな人が毎日逆境の中で過ごしているかもしれない。それでも、そういう精神を持てば、いずれ乗り越えられるんじゃないかと思っているので、みんなも頑張ってほしいなって。参考になるかは分からないですけど、闘病生活を通じて、そういうメッセージを伝えていきたい」