
5月27日(火)7時 @自宅
天気のいい日でした。妻は数日前に日本へ一時帰国しており、ひとりだけでの目覚め。西海岸の日差しがこれでもかと部屋に入り込み、太陽からだれも邪魔せずに部屋へと入ってきたその一筋の光は、この素晴らしいビクトリアの朝を祝福するような、美しいものでした。
すっかり根本が黒くなった髪の毛をほぐし、冷蔵庫を開けると昨日とりかえたばかりの冷たいお茶がぼくの目覚めを待っていたかのように嬉々とそこにいました。「オハヨウガククン♪」たしかにそう聞こえた気もしました。
ぼくの住んでいるビクトリア・ダウンタウンからオフィスのあるスタジアムまでは車で30分ほど。でも今日は9時から定例ミーティングがあるので少し早めにオフィスについて週末に撮影した素材の整理でもしようかなと思っていました。クローゼットから雑に服をとりだし、香水を一振り。いつもの香りに身を纏い、きたる新しい週への大きな希望をもって自宅を出発したことを記憶しています。
5月27日(火)8時15分 @自宅の地下駐車場
地下駐車場の少し重たいドアを開き、車の駐車スポットである「30番」に辿り着くと、ぼくはとあることに気がつくのです。
そう “全然ない” のです。そもそも車なんてものはそこに “ある” か “ない” かでしかないはずであるのに、たしかに駐車したはずのそれがそこになかったとき、人は「全然ない」と感想をもつわけです。たとえば車のほとんどがないけれど、そこにハンドルだけ駐車されていた場合、これは車が “ちょっとある” 状態になります。逆に車はそこにあるのにも関わらずギアだけない場合、これは車が “ちょっとない” 状態になります。
この成人男性は狼狽えました。地下駐車場に入るには専用の鍵が必要で、外部の人間が入ることができる状況ではないこと。監視カメラがいたるところにあって、なにか車にイタズラをされていたら必ず報告があること。そして間違いなく仕事に遅刻すること。完全に思考停止しているとどこからか聞いたことのある声が聞こえてきました。
「Yo man, What are you doing?」
PFCの10番、マルコが車からこちらをみていました。実はこの地下駐車場、複数のマンションで共同使用されているものであり、近所に住んでいるマルコも同じ場所に車を停めていました。狼狽極東ボーイは思考停止のまま「とりあえず仕事に遅れたらやばいか」とハポネーゼ丸出しの意思決定を行い、同じくスタジアムでの練習に向かうマルコにオフィスまで乗せてもらうことにしました。
車のなかでマルコと話しているうちになんだか面倒くさいことになったっぽいと気がつきます。いつも陽気なマルコが「Oh fxxk…」と漏らすごとに事態の深刻さが増すわけです。会話をしているうちに彼が「なにか思い当たることはないのか?」とつぶやき、自分の行動を振り返ってみることにしました。
さぁ、せっかくここまで読んでいるのだから一緒にぼくの車を探してみましょう。
——–
—–
–
5月24日(土)17時 @スターライトスタジアム
今シーズン、下馬評どおりの不調をみせる愛すべきパシフィックFCはこの日、今期最高の内容ながら審判のミスジャッジ起点のコーナーキックで失点し敗北。チームメイトとハイライトを振り返り、全責任を審判になすりつけるフットボール的態度を確立したあと、お世話になっている高尾さん(前職の先輩)の自宅でご飯をいただきました。
5月24日(土)20時 @ビクトリア・ダウンタウン
その後ダウンタウンの立体駐車場に駐車し、知人らとの会食に参加。いろんな話をしていたら時刻は22時半を過ぎ、そのまま車を運転して自宅の駐車場に着いたのが23時ごろだったかと思います。
5月25日(日)@自宅
自宅でずっとNetflixのアメリカンハントシリーズをみていました。このシリーズ、クオリティが高いにも関わらずめちゃくちゃアメリカ人アングルで制作されているので趣があります。
5月26日(月)@自宅
この日も試合日の振替休日で終始自宅でドキュメンタリーを見続けました。妻がいないとなにもする気が起きず、おそらくその日に発した言葉は「なんかめっちゃ腰いてぇなぁ…」と「うわこのキムチ酸っぱい匂いするじゃん…捨てなきゃ」のみでした。前に住んでいた二子新地とビクトリアで特に生活の質が変わっていないことがなによりです。
さて上記の事柄からぼくの車に起こっているであろうケースを絞り出したところ、こちらのラインナップになりました。
とりいそぎの感想として、たとえどれであったとしても怖すぎます。引っ越して数ヶ月経っている自分の駐車スポットを間違えた可能性も、だれかに正攻法で盗まれた可能性も、なによりそもそも土曜日の夜に運転して帰ってきたこの確かな記憶が間違っている可能性もすべてが怖いとしかいいようがありません。
オフィスについてチームメンバーに報告すると、皆がこの世の終わりかのような表情で心配をしてくれました。先日の敗戦後も同じような表情だったことを考えると、車を盗まれることはサッカーの試合で負けることと同じくらい悲しいことであると伺うことができます。我々の生活を取り巻くこの神聖なる球蹴りがいかにして人生にインパクトを与えているのか、予想だにしなかった角度で知ることができました。
5月27日(火)13時15分 @オフィス
それでもタスクはある。考えなければいけないこともある。社会人とは悲しい生き物です。ということで車のことは忘れて映像を編集していました。人生にはすべてを忘れることのできる時間が必要だと誰かが言っていたことを記憶しています。日本にいたときはサウナにいる時間がそれでしたが、いまは映像を触っている時間がおなじ機能をしている気がします。Artlistで自分の探していた音を見つけたとき、まるで砂場から砂金を発掘したような感覚になるものです。
さて、ちょうどそんな砂金を掘りあてたとき、後ろから声高々にこんなセリフが聞こえてきました。
声の主はクラブのバンディエラ・ジョシュでした。このなんとも悲しい話をきいた彼はビクトリアの公共パーキングなどに手当たりしだい電話をかけてくれていました。そのうちのひとつである駐車違反を取り締まる団体から「その車は今日の朝に違反切符を切られているよ」と報告があったわけです。その場は歓喜に包まれました。
そしてジョシュが続けます。
なんと車はぼくの自宅から2ブロック先の路上に停まっているというのです。
5月27日(火)19時00分 @ダウンタウン
ぼくとジョシュはダウンタウンに向かっていました。車が違反を切られたとされるその場所に向かっている途中、ぼくと車が育んできたいろいろな景色が脳裏をよぎるのです。少し前からずっと黄色い謎ランプがメーターのところに表示されていること、デカめのトラックが繰りだす飛び石を全力で受けたこと、トランクのサスペンションが壊れていてギロチン並みの強度でドアが閉まること、搬入を手伝ってくれた同僚にいちどギロチンを施行してしまったこと。もうちょっと美しい思い出があると嬉しかったですが、それでも愛着のある車には違いがありません。
メインストリートを左折して、いよいよその場所が目視できるようになりました。
ありました。めっちゃありました。そこには思い出がたくさん詰まった愛車が我が物顔で佇んでいるのです。しかし一眼でこの車がなにかしらの被害にあっていることもわかりました。後部座席の窓はほぼ全開に開いていて、車のなかに置いてあった衣類やサングラス、幾ばくかの現金がなくなっていること。そしてギロチンことトランクには身に覚えのない液体タンクとこれまたぼくのではない衣類がそこにありました。
ジョシュは冷静にこう言います。
ジョシュ「いやこりゃ車のなかで誰か住んでたな」
この感情を補完する言葉が「ヤバい」以外に見当たりません。すぐに警察に連絡をし、その場で到着を待つことにしました。ふと異国にいる実感が湧き、それと同時にずっと隣にいてくれるクラブのバンディエラの優しさが身に染みていました。やさしいにも程があります。
5月27日(火)19時30分 @事件現場
なにやらゴツい車両が到着しました。いつも見かける姿よりも厚着(語彙不足)の警官3名が目の前に降りたちます。
警官にこれまでのストーリーを話していると、その厚着警官もこの世の終わりかのような表情で同情をしてくれました。これはおそらくカナダ人が生まれもつものなのでしょう。モバゲーの初期アバター的なそんなあれです。
話を聞いた警官はグローブを装着し現場検証を行います。荷物ひとつひとつを確認し、所有者がだれかを丁寧に確認していました。
そしてやがて半開きの窓に気がつきます。
警官「この窓のロックを壊して侵入したみたいね」
ぼく「いやそれちょっと前からずっと半開きなんだよね」
ーーーーー
ーーー
ー
5月13日(火)17時30分 @オフィスの駐車場
たしか西陽が差し込むいい天気の日でした。仕事を終えて駐車場につき、いつも通りリュックとお弁当を後部座席にしまってドアを閉めたとき、「マーーーー」と甲高い音と共に窓がドンブラコとゆっくり下がりました。はじめはなにかの拍子で窓を下げるボタンが押されてしまったのだと思いましたがどうやっても無反応。手で押しあげることもできず、仕方がないので修理工場に持っていって翌日修理してもらうことにしました
5月14日(水)16時30分 @修理工場
修理工場に車を取りに行くと、車のパーツをカリフォルニアから取り寄せる必要があること、それまでは仮の処置をしているからとりあえず持って帰ってほしいことを伝えられました。
車を見にいくと、半開きの窓にビニール袋が被されていて「もうそれは盗難車じゃん」と思いました。まさかこのあと本当の盗難車になるなんて、伏線なんてものは回収したときにはじめて認識するのだなと今になっては思います。
5月27日(火)20時00分 @事件現場
警察の現場検証は続きます。
治安がいいとはいえ、ダウンタウンのど真ん中。路上生活者も多く軽犯罪が頻繁に起こってしまうこの街で窓が開いている(たとえビニールでカバーされていたとしても)状態はよろしくないわけです。いろんなことが重なるよなぁと思ってしまいました。元は窓が壊れたことが原因ですが、そのほかに自分に過失があるわけではないにも関わらず、自宅の駐車場で車を盗まれる。そういう不幸はどうしても避けることができないわけです。
ひととおりの現場検証を終え、警官にはどうしても不可解なことがありました。それはどのようにして犯人がこの車を運転したのか、です。前述のとおり車はセキュリティが張り巡らされている地下駐車場においてあったわけです。万が一セキュリティを掻い潜ったとしても、車の後部座席の窓が空いていたとしても、その車を運転できることとは別問題であります。
警官「おそらく車のキーを複製してもっているひとがいると思います。車を最後に停めたあと、あなたは鍵を自宅に持ち帰ったわけよね?」
ぼく「いやそれが車のなかに置きっぱなしにしていたんだよね」
ここからの記憶は鮮明ではありません。ただはっきりと覚えているのはあれだけ親身になってくれていた警官に割としっかりめに怒られたことでした。「でも駐車場のセキュリティがしっかりしていると思ったから…」と言い訳しても「その常識は東京でしか通用しないから」と一蹴。東京で通用した試しも別にありません。
つまり土曜日夜にぼくの駐車場に駐車されていた車は「窓が半開きでビニールに覆われている」かつ「車の鍵が運転席に置かれている」状態であり、さながら盗難車スターターキットだったわけです。もし進研ゼミ盗難車講座があるならチラシに同梱されている漫画にかかれているくらいの初級編。無念です。哀れです。恥ずかしいです。
その後、警察の調べによりおそらく犯人はダウンタウンに住んでいる路上生活者であること。
犯行手段は、
のいずれかに仮定されました。もし後者が現実だったのならぼくは血液ごと外国ナイズドされた防犯感覚にすべきだと思います。現在駐車場および市内の防犯カメラで確認中です。
そしてもっとも大きな問題は犯人がいまだ鍵をもっていること、そして駐車してある場所が判明されていることです。すでに車は牽引されており、元の駐車場所に戻っている状態ですが、いつ何時でもセキュリティさえ突破できれば車にアクセスすることができます。こいつぁ困りました。
ということで本案件、こう結論づけることができるでしょう。
いや笑えねぇよ。
ーーー
ここ数年、急激にサービスのシェアを伸ばしているカーシェアリング産業。手頃な価格で車を使用することができるとあって若者を中心に人気があります。しかし本来、車をもつことはもっと大きな喜びに溢れる、人生の大きなステップであったはずです。すべての事象が便利になった現在の日本国において、もっとも大切なことはなんなのでしょうか。
___ひとを思いやる気持ちです。
たとえぼくたちが使用しているデバイスがどんなに時間を奪ったとしても、たとえAIがどんなに人生の最適解を早く提出してきたとしても、人間には決して忘れてはいけない大切な価値観がある。そんな当たり前を忘れず、ぼくは今日もこの異国で偶発的に発生したカーシェア状態をたのしみ、共生社会の実現へ歩みを進めたいと思います。
ご静聴まことにありがとうございました。
PROFILE
田代 楽(Gaku Tashiro)
