
本棚。デスク。小型の冷蔵庫。プリンタ。何も貼られていないまっさらな壁。
東海大学湘南キャンパスの15号館にある研究室のあまりの簡素さに驚くと、入野貴幸は笑いながら言った。
「余計な物を置きたくないんですよね。他の先生方から『お前の研究室は監獄みたいだな』って言われます」
白とライトグレーの色調で統一された、ごくごくシンプルなその部屋は、冷静で理知的な入野の人となりを象徴する空間のようにも感じられた。

東海大学男子バスケットボール部『シーガルス』は、今年度より新しい航海に出る。
2000年に同部のヘッドコーチに就任し、当時関東大学リーグ3部所属だったチームを屈指の名門に育て上げた陸川章から、2004年度の同部主将で、卒業後は東海大学付属諏訪高校(旧東海大学付属第三高校)男子バスケットボール部監督を務めた入野にバトンが手渡された。
入野は高校年代としては少し視座の高い戦術や組織論を交えながら、母校を全国指折りの強豪校に育て、ザック・バランスキー、福澤晃平(ともにアルバルク東京)、井上諒汰(佐賀バルーナーズ)、笹倉怜寿(越谷アルファーズ)、黒川虎徹(アルティーリ千葉)らBリーガーを多数育てた。2017年から2024年にはU18男子日本代表のアシスタントコーチとしても腕をふるった。
世代交代に向けた準備は、2019年から始まった。現在はアソシエイトコーチとしてチームをサポートする陸川が経緯を説明する。
「東海大には『監督は現役の教職員が務める』というルールがあるので、私の定年後のことを考え、他の先生方に後任の選び方について相談しました。まずは修士の学位を持ってなければいけない。さらに、教員として学生たちの指導ができる人物でなければいけないと。うちの卒業生にはBリーグでコーチをやっている者もいますが、バスケのコーチング以外のところを含めて網羅できる人間は入野しかいないなと」
入野は、陸川のヘッドコーチ就任初年度に同部に入部した『陸川組』の1期生であり、合流初日に立ち会った唯一の新入生でもあった。陸川はこの日の入野の様子をいまだに覚えているという。
「ホワイトボードに『1部昇格、インカレ出場』って書いて『これが目標だ』って言ったら、みんな大笑いですよ。誰もそんなことができるなんて思っていない。でも1人だけ、目がギラギラしたやつがいた。そのときは誰かわからなかったけど、あとで考えてみたらあれが入野だった。インパクト、ありましたね」

とは言え、入野もけっして選手として大きな夢を持って同部の門を叩いたわけではなかった。このミーティングに参加していたのも、単純に実家が近かったからだ。しかし、陸川の言葉に触発され、気持ちが高揚していたことは今でも鮮明に覚えている。
「ここまで高い目標を本気で掲げてくれたコーチに出会ったことなかったので、すごくインパクトは強かったです。『おぉ、やってやろう』みたいな感じはありましたね」
ガッツにあふれ、上級生や上位チームに臆さず戦いを挑めるマインドを備えた同期たちと少しずつ結果を積み上げた。3年次には石崎巧(元琉球ゴールデンキングスなど)、竹内譲次(大阪エヴェッサ)ら世代屈指の実力を持つ下級生たちが入部。公式戦のコートに立つ機会は激減したが、チームをまとめ上げ、4年次の秋には見事に創部初の1部昇格を果たした。
「1年生から試合にからんで、2年生でスタートになって、怪我で控えに回って。石崎が来てからは試合に出られない時間も増えた。たぶん、しんどかったと思います」。陸川はそう振り返るが、入野は「スタートで出る者。控えで出る者。出られない者。それぞれの立場を知っていることは、今、コーチとしてすごく生きていると思います」と自身の歩みをとらえている。

うまくいかなくても戦い続ける心。明らかに自分たちより実力のある後輩たちと一枚岩になるという難しい問題に向き合い、考え、行動する力。ハードな練習を言い訳にすることなく学業にいそしみ、首席で卒業した頭脳と意志。そういったものをひっくるめて、陸川は入野を自分の後任に据えたいと思った。
自分の後を継ぐ意志があるか。2019年の夏に受けた陸川の申し出を、入野は受け入れた。学校長の了承のもと、月曜と火曜は大学院生、水曜から日曜は教員と指導者という『三足のわらじ』生活を2年間続け、2023年、晴れて東海大に入職。専任講師として授業を受け持ちながら、アシスタントコーチとして陸川の手腕を学んだ。
「入野はとにかく賢い。院で(大学スポーツの指導者としてはあまり一般的でない)体育哲学を専攻して、100枚で十分な修士論文を211枚書いた男ですから。研究のほうはまだまだこれからですが、勉強することに熱心だし、それをどう指導に活かすかということにも長けている。私よりも大学教員に向いていると思います」
陸川は冗談まじりにそう言い、続けた。
「この間、練習で学生たちにいいことを言っていました。『東海大学は日本の大学の代表として強くならなきゃダメなんだ。学生界を変えるんだ』って。それを見て『あぁ、間違いなし』って思いました」
PROFILE
入野 貴幸(Takayuki Irino)

PROFILE
陸川 章(Akira Rikukawa)

著者
青木 美帆(Miho Awokie)
