FOOTBALL

選び抜かれた天才達の、プロでの現在地。【前編】powered by Athdemy

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text by Asami Sato

JFAアカデミー福島(以下、JFAアカデミー)。“2050年までにFIFAワールドカップ優勝”を目標に掲げる日本サッカー協会が、“世界トップ10を目指した個の育成”、“世界基準を日常に”というキーワードをもとに2006年に設立した、中高一貫のエリート教育機関である(現在は女子のみが6年間で、男子は中学校3年間)。JFAアカデミー出身のプロ選手は男女ともに数多く存在し、先日のパリ五輪のサッカー日本代表には男女合計で9名もの卒業生がメンバー入りを果たした。

今回、その2期生の松本昌也と3期生の金子翔太(ともにジュビロ磐田)、そして松本と同期である中山知之(Athdemy CCO)という三者によるクロストークが実現した。JFAアカデミー福島に入校したきっかけや当時の思い出、プロ入り後の挫折などについて話を聞いた。(全2回)

前列左から3人目が金子、
後列左から4人目が中山、5人目が松本

『代表のユニフォームが着れる!』

現在では広く知られるようになったものの、3人が入学したのはJFAアカデミーが創設されたばかりの頃である。当時どのようなきっかけで、どのような想いで、中学1年生から親元を離れて生きていく決断をしたのだろうか。

松本「所属していた少年団のコーチから受験を勧められ、力試しで受けてみました。地元の大分や九州から出る機会がそれまではあまりなく、『全国にはどれだけ上手い選手がいるのだろうか。どれだけ自分が通用するのだろうか』という好奇心で挑戦した側面が大きいです」

金子「僕もチームのコーチがJFAアカデミーの存在を知っていたのがきっかけです。栃木県出身なのですが、当時は地元の栃木SCもまだJFL所属で、栃木からプロサッカー選手になるイメージが全然できなくて、『将来は鹿島学園や前橋育英に進むべきなのかな?』という話を両親とした記憶もあります。

でも小学6年生なので、『本気でプロになるために行く』というよりは興味本位で受けてみたら運良く合格した、という感じでした。JFAアカデミーのパンフレットで選手たちが日本代表のユニフォームを着ていて、『受かったら代表のユニフォームが着れる!』と思ったのも覚えていますね」

中山「僕が受けた理由は2人とは全く違って、ネットでJFAアカデミーの日記をたまたま見つけた母から『こんなのがあるらしいよ』と言われて、すぐに『受ける』と返事をしたんですけど…ちょうどその頃、選ばれたくないと思いながら受けた愛知県トレセンのセレクションで手を抜いて落ちた直後だったので、『(JFAアカデミーのセレクションを)もし受けないと答えたら、“この子はサッカーが嫌いなんだ”って親が悲しむかな?』と子供ながらに勝手に想像して、そう答えてしまったのを覚えています(笑)。そのままどこかお祭り感覚でセレクションを受けに行ったことが功を奏したのか、セレクションだと思わずのびのびプレーして、奇跡的に合格しました」

それぞれ三者三様のきっかけだが、入学への競争率は非常に高かったという。

金子「3期生の時は約45倍の倍率でした。記憶が正しければ、1次試験、2次試験、3次試験、最終試験の4回だったと思います」

中山「2期生の時は約60倍の倍率があったと聞いた覚えがあって、それは歴代最高の倍率だったようですね。同じく最終試験まで計4回あり、1次試験は全国各地で行われ、2次試験は主要都市、3次・4次試験は福島県のJ-VILLAGEに泊まり数日間に渡って行われました」

地元の少年団チームでプレーする松本(左)と金子(右)

『自分で自分の可能性を決めつけるな!』

JFAアカデミー出身のプロ選手は多いものの、その内側がメディアで語られる機会はそれほど多くなく、どこか謎に満ちている。JFAアカデミーで過ごした日々の中で、サッカーに関してそれぞれの印象に残っている出来事を聞いてみた。

金子「中学時代の監督が原田貴志さんという方で、優しい一面なんて無いというほどロジカルで厳しい方だったのですが、プロになれたのは原田さんのおかげと言っても過言ではないくらい、本当にお世話になりました。

そんな原田さんが、ある試合のハーフタイムに一度だけ『お前の能力に疑いはないから、お前ならやれるから自分を信じろ。思い切ってやってこい』という言葉をかけて下さったことがあって。その時に鳥肌というか、体が“ぞわっ”としたのを覚えています。当時、その言葉をサッカーノートにもデカデカと書きましたし、プロに入ってからも好きな言葉を聞かれたらすぐに出てきます」

中山「僕らの代は島田信幸さんという方が監督だったのですが、雨の J-VILLAGEでの練習試合で、珍しく僕がトップ下を任された時があって。当時は後ろのポジションが多かったので、トップ下でどうプレーすればいいか分からずストレスを感じていました。あるシーンで、ボールを受けた時に前を向けずにワンタッチでボールを下げた時に、島田さんから『前を向け!』と言われて、とっさに『無理だろ!』と言い返してしまったんです。

試合が終わって他の選手たちが帰った後、島田さんに呼び出されて、土砂降りの中で『自分で自分の可能性を決めつけるな!』と怒鳴られ、その言葉がまるで雷のように突き刺さりました。島田さんの目が泣いているようにも見えて、本気で言ってくれていると感じましたし、“自分の可能性に蓋をするな”ということを人生で初めて言われて、『自分から蓋をしてどうするんだ』と、当時は自分のマインドに情けなさすら感じました。

競技から離れて仕事をしている今でも、この言葉を随所で思い出すんです。たとえば『理想の状態はこんな形かな』と考えた時に、『これは本当に理想か?可能性に蓋をしていないか?』という感じで、一回立ち帰る場所として、今でも自分の中に強く刻まれていますね」

中山にとって島田信幸監督(当時)の言葉は忘れられない

松本「当時、U17ワールドカップに向けた年代別の代表メンバーに継続して選ばれていたのですが、ある時JFAアカデミー同期の選手が2人選ばれて、僕が選出外だったことがあったんです。彼らの代わりに僕が外されたように感じてしまい、非常に悔しかったですし、人生で初めて挫折感というものを味わいました。

『周りからどう思われているんだろう?』ということを気にするタイプなので、自分が気にしていただけかもしれないですけど、アカデミー内でもどこか気まずかったですし、落ち込んでいるところを周囲に見せないように努めていたのを覚えています」

中山「当時の昌也がそんなふうに感じていたとは知りませんでした。昌也も翔太もその世代を牽引する選手で、僕からしたら雲の上の存在というか、光と影のように感じていましたから(笑)」

松本「そんなことはないと思います(笑)。今振り返ってみると、JFAアカデミーでほとんどのポジションを経験させてもらえたことが、今の自分にとって非常にプラスだったと思います。ドリブルに特徴があるとか、『これが武器だ』という選手ではなく、与えられたポジションや役割で、適切なプレーをできるのが自分の強みだと思っているので、6年間でその土台を作らせてもらえたのはありがたかったです 

『JFAアカデミーの6年間がなければ、プロとして生き残れなかった』

松本と金子の2人は今でもプロサッカー選手として活躍し、中山は独自の観点と手法で日本サッカー界の発展に貢献している。今の3人は、JFAアカデミーでの6年間をどう振り返るのだろう。

中山「一言で言えば、考える力が身に付いた6年間でした。小学生までは鼻水を垂らして走り回っているタイプで、何かについて深く思考する、という経験は微塵もありませんでしたが、JFAアカデミーには言語技術講義(ロジカルコミュニケーションスキル)という、物事を論理的に組み立てて思考・分析して人に伝えるための授業がありました。また、翔太も先程名前を挙げていた原田さんからは、“常に疑え”ということを教わったりもしました。たとえば、目上の人からの言葉一つに対しても、言われたことを鵜呑みにせず『なぜその人はそう言っているのか?それは本当に正しいことなのか?』など、いい意味で疑問を持って自分の頭で考える癖を身につけることができました。そういう思考力を含め、サッカー以外の面で得られたものも大きいと感じています」

松本「トモ(中山)と同じように、小学生まではほとんどのことを両親にお世話してもらって、何も考えずに生きていましたけど、その環境からいきなり家族の助けがない環境に来て、身の回りのことを全部自分でできるようになる必要がありましたし、人間的に成長させてくれた6年間だったと感じます。

サッカーに関しては、JFAアカデミーでの6年間がなければ今のプレースタイルが確立されていなかったと思いますし、チームや監督、スタイル、求められることなども常に変化する中で、プロとして生き残れなかっただろうな、と思います」

金子「サッカー面の環境もコーチ陣のスキルも、食事を含めた生活環境も本当に申し分ありませんでした。その中で1つ挙げるとすれば、やはり寮での共同生活なので、サッカーでも私生活でも、他人の気持ちを理解することが求められました。

入学して1番最初に、JFAアカデミーのフィロソフィー(=哲学)として、“常に(どんなときでも、日本でも海外でも)ポジティブな態度で何事にも臨み、自信に満ち溢れた立ち居振る舞いのできる人間になる”という言葉を教わるんです。

入学時はフィロソフィーという言葉自体も知らない年齢ですけど、JFAのコーチ陣や当時スクールマスターだった田嶋幸三さん(前JFA会長)からそういう言葉をビシッと言われると、『自分もそういう人間になっていかないといけないんだな』という気持ちに自然となり、人間性が形成されていきました。その学びや共同生活の経験が、チームメイトの意図や気持ちを読み取りながらプレーできている部分にも繋がっていると思います」

世代別の日本代表に選出された松本(10番)と金子(15番)

『プロ1択で勝負しよう』背中を押してくれた恩師の言葉

JFAアカデミーを卒業した後、松本は大分トリニータに、金子は清水エスパルスに入団した。プロ入りを決めた当時の状況を次のように振り返る。

松本「年代別の代表には選ばれていたものの、『プロ入りは厳しいのかな』と感じることもありましたし、大学でサッカーをする選択肢を考えた瞬間もありました。

ただ、3年生の時に飛び級でU19の代表に入ることができて、そこで初めてプロになる明確なイメージを持ち始めました。U19なので1つ上の世代の選手たちはプロ1年目で試合に絡んでいたり、他のJユースの同期の選手がトップチームでプレーしているのを見て、『自分にもその可能性があるんじゃないか』と感じ始めて、プロに行ける自信が付きました」

金子「高校2年生の時に進路相談があるのですが、その時の僕は少し弱気になっていて、大学進学を視野に入れていることを当時の監督の中田康人さんに伝えました。その際に『今のA代表の選手たちのほとんどは高卒だよ』と言われたことで背中を押され、『じゃあプロ1択で勝負しよう』と決意することができました。

また、東日本大震災の影響でJFAアカデミーの活動拠点が福島から御殿場になったことから、エスパルスのスカウトの方がたまたま練習を見に来た時に目に留まり、その後エスパルスの練習に参加してキャンプにも加わって、運良く入団することできました。震災は僕らにとっても非常に辛く悲しい出来事でしたが、御殿場に拠点が変わったことがプロ入りする上での個人的なターニングポイントになったという事実はありました」

松本と金子が明かす、プロ入り後の挫折と転機。そして両選手がAthdemy中山との伴走に今季から取り組み始めたきっかけとは――。

後編に続きます⇩
https://fergus.jp/interview/interview-4313/

PROFILE

松本昌也(Masaya Matsumoto)
松本昌也(Masaya Matsumoto)
1995年1月25日生まれ。175cm、69kg。大分県出身。ジュビロ磐田所属。

PROFILE

金子翔太(Shota Kaneko)
金子翔太(Shota Kaneko)
1995年5月2日生まれ。163cm、58kg。栃木県出身。ジュビロ磐田所属。

PROFILE

中山 知之(Tomoyuki Nakayama)
中山 知之(Tomoyuki Nakayama)
JFAアカデミー福島出身、大学卒業後に海外サッカークラブでプレー。競技引退後は、国内外の多様な業界でのセールス・事業開発やコーチングに従事。経営者やビジネスパーソン・アスリートへのコーチング経験を積んだ後、AthdemyのCCOに就任。

著者

佐藤麻水(Asami Sato)
佐藤麻水(Asami Sato)
音楽や映画などのカルチャーとサッカーの記事が得意。趣味はヨガと市民プールで泳ぐこと。

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