「いまの生々しい生活を、そのまま書いてほしいんだ」
これはカズキくんに、この連載について話をもらったときの言葉である。
当時の僕は、どうせそのうちサラっと仕事が決まって、豊かな生活を送るだろうから、そんなに面白いことは起こらないと思うんだよなぁと予想していた。
LAにきて、約70日。
男は5ドルのホットドッグを買うか、我慢して寝るかで10分以上真剣に悩んでいた。愛想がよかったホットドッグ屋の店員も、しまいには嫌な顔をしはじめた。
仕事は決まっていないし、収入はない。わずか、2ヶ月前に楽観視していた未来は、チープな晩御飯すら躊躇するくらいにドス曇っていた。
だけど、友だちがたくさんできた。夢のような経験をした。LAFCの選考に残っている。太陽の下で午前中からするサッカーは最高で、日焼けが最悪に痛いことを知った。タコスは今日も美味しく、ハグは素晴らしく、金のない若者たちはなぜか楽しそうだ。異国の地で会う日本人の友だちはみんなそれぞれの苦悩と戦っていて、その先にある彩りを求めている。
目減りしていく貯金と共に、いまのビザの期限も残りわずかになってきた。
そして生活はつづく。
6月19日 例の
ベネズエラ人が、朝から自転車を自力で電動自転車に改造しようと、よくわからないガスを部屋で撒き散らしたらしく、部屋が爆発したあとレベルの激臭に見舞われていて目が覚めた。
グループチャットではこの異臭騒ぎに対してブチギレている他のルーミーが怒りの投稿をし、例の彼は「君たちとは戦いたくないんだ」と謎の冷静な対処をキメていた。棚にあげるとはまさにこのことである。
ただ流石にちょっとシュンとした様子だった。怒られるの嫌だもんね。
6月20日 例のシュンとした
ベネズエラ人が、髪を切った。サイドを刈り上げた夏らしい髪型で、反省は全くない。多分この大陸には反省しても坊主にする文化はない。というか反省する文化がない。
6月21日 例のシュンとした髪を切った
ベネズエラ人が、他の部屋に引っ越しを余儀なくされたらしい。
智辯和歌山高校の甲子園出場に匹敵する数と頻度で迷惑行為(悪意はない)を繰り返した結果、ついにオフィシャル退去となったらしい。
本当にどうでもいいが、立正大淞南という名前は選手権でしか見かけないし、岐阜女子はウィンターカップでしか聞かない。
6月22日 全米日系人博物館
サンタモニカからメトロが直通運転となったダウンタウン・リトルトーキョーにある「全米日系人博物館」に行ってきた。海よりも、フリーマーケットよりも興味のあった博物館である。
ここでは「アメリカと日本人」というテーマで、移住、迫害、文化の歴史をみることができる。なかでも興味深かったことは、言語と移民の関係。日系人は現在おもに居住している3世、4世ともに日本語を話すひとが少ないという。日本にいたときには全く感じることがなかったが、明らかに日本人の顔で日本人の佇まいの彼らも、全く日本語を話すことができない。そんなことが結構ある。
遡ること第二次世界大戦のとき、すでに日本系の移民は大陸に多く存在していて、農業や鉄道産業で存在感を示していた。そんな状況下で戦争突入。敵国の日本人家族は全て強制的に収容所へ送られた。それだけでなく、アメリカで生まれ育った日系人(たとえ血が1/16だけだったとしても)も。
日系人と結婚した方のなかには、日本のルーツを持っていないアメリカ人も多かったが、多くは家族とともに、アメリカ人なのに、アメリカ人によって収容されたというのだ。結婚当時はそんなことが起こることなんて知らなかったわけで、それでも家族との時間を優先した彼らはなにを思っていたのだろうか。母国の言葉を話すことができないとは、一体どんな感じなのだろう。
いま観光客で賑わうリトル・トーキョーも、このミュージアムに記載されていた時代の当事者が作ってきた街である。
6月23日 愛をこめて。
多分3年ほど前の渋谷で、はじめて会った彼は目がギンギンで、外資系企業の営業みたいな容姿をしていた。もれなく僕も同じく目がギンギンで、自分の企画が世間に出始めたころで、緊張感と充実感に包まれていた。
そんなギンギンの彼が見せてくれた、ナイターゲームの写真がとてつもなくかっこよく、当時の語彙では表現のできない希望を感じたことをいまでも覚えている。結婚式場での撮影経験が生きているんだよねぇと笑いながら話していたその目も、ガクくんみたいな若い人がメインの場でゴリゴリやってんの超嬉しいんだよねとトーンを変えたときのその目も、もれなくギンギンだった。
それから、いろんなプロジェクトで撮影をしていただいた。プロフィール写真もお願いした。次第に自分もフロンターレのなかで、色々決められるようになったから、クラブの仕事もお願いした。マスコットの結婚式を撮ってもらったとき、意味不明な企画にもかかわらず二つ返事で承諾してくれた。先輩がフォトグラファーを探していたときにも、すぐに彼を紹介した。だんだんと、”本番の場”で会う機会が多くなって、それが不思議な感覚であった。
そんなみんなから愛され、アツく、いつもストイックな男が、ついにパパになった。
かずきくん、本当におめでとうございます。
正直パパになること、家庭を持つことの尊さは、仕事で成功したとか、お金をたくさん持ったとか、そんなことよりもずっと価値のあることなんだと、ここにきて感じています。
子どもの目もギンギンなんでしょうか。もれなくアツい性格なんでしょうか。
カズキくんの子どもだから、いい子に育つだろうなぁ。仕事が決まったら、北米のおむつ、大量に送ります。
LAより愛をこめて。直接会って伝えられないからこの場を借りて、おめでとうございます。これからも何卒。
6月24日 って言ってます
LAFCはバンクーバー・ホワイトキャップスとの試合。
相手のゴールキーパーはマリノスにも所属していた高丘選手とあって、ゴール裏の元気な連中は日本語での罵声の浴びせ方を一生懸命練習していた。
LAFCのゴール裏はご存知のとおり、ゴールの真裏にあり、出禁を恐れず手を伸ばせば、普通にプレイヤーに触ることができる。毎度のことながら、相手ゴールキーパーはどういう神経をしていたらあの罵声を無視できるのだろうかと不思議で仕方がない。
ビハインドで迎えた後半、満を持して高丘選手がLAFCサポーター側に陣取ると、そのサポーター陣を見上げて、そして、目が合った。突然の日本人にびっくりして、ニコってしてくれた。高丘さん、僕はなにもいっていないです。隣で連中が罵声を浴びせてますけど、気にしないでください。
試合はそんな高丘選手のビッグセーブもあり2-3で敗北。途中から連中は「いますぐ◯ね、高丘。ってガクが言っているぞ」と給水ボトルをゴール真横に取りにくる度に叫ぶから、「僕言ってないです!」と日本語で叫び返した。
しかしこの異国の地で、しかもヨーロッパではないここで、日本人選手をみると不思議な気持ちになる。そして無性のリスペクトが湧いてくる。もし高丘さんと会うときがあれば、全力で初対面のフリをしようと心から誓った1日だった。
6月25日 進捗
そういえば昨日の試合後、リッチ(LAFCのブランド責任者)から「ガク、来週選考のことに関して電話するわ」と言われた。
ビザ切れまで、あと16日。