パンパンにむくんで靴すら入らなくなった足をやっとの思いで動かす。ようやく慣れはじめた太平洋横断ZIPAIRの旅路ももう少しである。左には相変わらずどこでも爆睡する妻がいて、右には雲のうえにひろがる赤黄色の朝日が眩しかった。
そういえば3年前、カタールから日本に帰るときに見た景色もおんなじ感じだったかも、と思っていたらまだ終わってもない20代が走馬灯のように駆け巡った。
地元の河川敷でワンバン(多分立川語)をして失敗したやつにケツアテ(多分立川語)をしたあの日、「30分だけカラオケいこう」とみんなが共通認識している嘘を真心ブラザースが肯定してくれたあの日、再会のハグがあまり恥ずかしくなくなっていたあの日、撮影スタジオで授(自主規制)の話で盛り上がったあの日、締めのラーメン食べた直後に友だちが目の前で盛大に(自主規制)したあの日、西国立で降りる予定が立川まで寝過ごして仕方ないから折り返し電車の出発を待ってたら稲城長沼まで寝過ごしたあの日、あたたかい冬の朝に覚えのない懐かしさを感じてなぜか寂しくなったあの日。
それらの思い出は到底ソーシャルメディアには “映えないコンテンツ” だけれど、むしろそんなことのほうがいつだって自分の気持ちを煌びやかにしてくれたりする。
右に見えている朝日がじんわりと大きくなってきて、さっきの走馬灯にでてきたことがすべて直近1ヶ月に起こったことだと思いだす。「あいつほうれん草そのまま(自主規制)てたなぁ」とか思っているといつのまに起きた妻が朝日の写真を撮っていた。
カナダはすぐそこである。
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口調が変わります。
ときは5年前くらいの東京。
92FCと名付けられた「プロではないフットボールクラブ」が誕生したあたりから、東京でもいよいよファッション、カルチャーとフットボールをいかにマージさせるのさと議論が加速した印象があります。あのカズマ・カワウチの功績です。
よく考えたらかつての強豪クラブは讀賣が母体だったわけで、マスメディアとの関係性もカルチャーとの関連も普通にあったわけなのですが、なぜかその話をメインで面白がるひとがあまりいなかった印象なんですね。そもそもその文脈とJリーグファンとの相性がそこまでよくなかったってことなのでしょうか。
海を渡った外国諸国ではフットボールコミュニティを軸にデザインを整えたり、写真映像の精度を高めて自分たちを世に発信したりする流れも大きくなっていた10年代最後半、つまり92FCはようやく日本にこういうのでてきた〜〜いかち〜〜という感じがする第一線だったわけです。
ほどなくして当時のぼくはそのフットボールコミュニティにいる友だちと「Crab FC」なるものをつくりました。「Crab Football Club」の響きが心地いいなって年末にカニを食べているときに思ったのを覚えています。
そんなカニFCがあたらしいコレクションを3年ぶりに出しました。ただ友だちともう一回集まりたかった趣旨なので、一連の流れにまつわる詳細は省きます。
世界的フットボールメディアとどう関わるか。
英語圏でサッカーの仕事をして感じたことのなかで1番大きな部分は「世界のサッカー、色々繋がりすぎでは?」です。それは人的な意味でも、手法でもなんでも。逆にいうと世界でもトップレベルに特殊な言語を母語とし、ほぼドメスティックに発展を遂げた日本サッカーってとんでもないなとも思います。そもそも地方にあるクラブが地元企業の支援を受けて普通に存続できている日本のマーケットのとんでもなさです。ジーコの招聘が事故(ジーコ)らなかったことが奇跡だと思います。この一文をわざわざ差し込まなければいけないほど必要だったとは自分でも思いません。
そのなかでもそれを如実に感じるのは「フットボールメディア」の存在です。SoccerBibleやCOPA90をはじめとするメディアには選手の移籍情報もスタメン予想も載っていませんが、世界のフットボール的トレンドが詳細にまとめられています。それはいわば「世界のフットボール人間たちからプロップスを得るためのお立ち台」であり、ぼくも大抵社内の説明にこれらのメディアを引用します。
Japanese Creative Collective Crab FC Reveal First “Street Football Kit” – SoccerBible Japanese football creatives Crab.FC reveal their first “Stree www.soccerbible.com
世の中にはよくわからないことがあります。
それは「右から追い越し車線に合流させられる首都高」と『カニFC』です。
カニFCはいままでローンチしたほぼすべての企画が彼らのような大きなメディアに取り上げられていますが、意識していることは「海外トレンドの文脈で企画をつくる」「適切なPRのひとを招きいれる(外国人)」「制作物のクオリティを世界でも通用するレベルにする」の3つのみ。完全にコツがあるのだなとようやく今回の件で理解しつつ、KAPPAやNIKEのあれらもほぼ同じロジックで世界的流行をつくっている(かのように錯覚させる)事実に強烈すぎるメディアパワーがもたらす界隈の歪さも感じます。
フットボールシャツを街で着ようの嘘
『街で着られることが優れたデザインのフットボールキットである論』をなぜかよく目にする日本のソーシャルメディアにおいて、あまりにも大きな影響を与えているなと感じるのが前述したフットボールメディアの存在です。
ただし彼らの取りあげる「街でサポーターがおしゃれにユニフォームを着こなしている様子」はいまも昔もほとんどがサプライヤーのつくったマーケティング上の作例であり、実際にそんな様子をみるかといえばぼくの肉眼では捉えられていません。ワッペ(ワールドペガサス)(多分立川語)のスクバのほうが圧倒的に流行ってました。でも確かにそれをビジュアルそのままに輸入すればイケてる感がだせそうって発想はあるよなとも思います。
つまり理由がないんだと思います。日本においてユニフォームを日常的に着る理由が。デザインやキレッキレの着用例を提示されただけでは不十分であり、着せるまでの訴求を怠っている感も否めません。サンプルとなっている海外の街ではどんなときに着られているのか、なんのために着るのか、着たらどうなるのか、それらの提案を誠実にやる必要はあるなと思うわけです。
もう少し深ぼってみると、これはチームの強さとか有名選手がいるいないはそこまで関係なく、日本という国にその土壌がまだない事実以下でも以上でもないってことです。そうなってくるとプロダクトのデザインとそれを実際に届けるコミュニケーションでは圧倒的に後者のほうが人を動かすことができそうなことがなんとなく見えてきます。本当にやるべきことは『街で着られるデザインづくり』よりも、『着られる街づくりと着るひととのそれ相応の関係性づくり』であるとどこかのPodcastが言っていました。
ただし描く方向としてはあまりにも正しい。『街で着られることが優れたデザインのフットボールキットである』とは思わないけれど『フットボールにまつわるウェアを着るファンが街にわんさかいたら嬉しい』ことには違いがありません。ならどうすればいいのか、批判するだけでは誰でもできるので自分なりに考えたのが先月の記事にあるような事柄でした。宣伝です。
アルゴリズムが生んだフットボールを見ないフットボールファン
これがあります。
昨今のファッショナブルフットボール路線は日本でもいくつかのコミュニティを経由して特に都心で浸透してきているように感じます。その余波は少し前にTikTokでもトレンドを生んでいて「今日彼氏に会うためのスポーティコーデ」「サカシャツコーデ」の名のもと無邪気にぼくのアルゴリズムにも飛んできます。SEGAがスポンサーの01-02アウェイアーセナルが1週間コーデの軸になっていて「洗いなさい」と思いました。ちゃんと裏返してネットにいれて。
つまり「フットボールウェアを着ているひと」と「フットボールファン」が連携していない状態であり、ある意味で『街で着られることが優れたデザインのフットボールキットである論』を証明している皮肉です。おそらく彼ら彼女らはお相撲のまわしがファッションアイテムになればそれを身につけると思うし、東京のカオスさを考えたらテニスのラケットくらいはそろそろそのアイテムのひとつになっているのかもしれません。せっかく同じ未来を描いているのだから、どうせ土壌がないのだから、フットボールファンが街でフットボールを表現しているときがいつか、そのときどんな服装をしているのか、そもそもその訴求を受け入れられる関係性と企画のアングルなのか、そんなことを自戒してタトゥーに掘りつつ、2025年のユニフォームローンチの撮影を明日からはじめます。またみなさんに連絡します。